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【弾劾】人吉藩初代藩主編8栞62

初代藩主は既に亡くなってますが、犬童頼兄排斥は初代藩主の意思だと推察しているので、書庫タイトルはこのままで行きます^-^
初代藩主・長毎(初名は頼房)と二代藩主・頼寛(よりひろ)が、犬童一族排除を決めた理由に、家督のことも絡むんじゃないかと推測してました。
父・長毎の死亡時で頼寛は既に数えで37歳でしたが、未だ嫡男に恵まれてなかったんです。

1618年(元和4)12月13日に頼寛(後の二代藩主)と、犬童頼兄の娘・亀鶴が結婚した。
頼寛は19歳で亀鶴は2つ年上。

後に産まれる頼寛嫡子の生母は、側室・片岡正秀の娘で、頼寛と亀鶴の間に男子は産まれてなかったんです。
初代藩主死亡時で頼寛室・亀鶴は39歳・・・・・この時代では難しいんじゃ・・・

「床入りは35歳済んだら遠慮する」大奥ものなんかで出てくる仕来りが、いつごろから始まったかは知りません。
ですが10年以上にわたり妊娠の気配もないとなると、さすがに側室を考えなきゃならないはずです。
養子を迎えるには頼寛は、まだまだ若いんですから。

城・人吉城、二の丸御殿の長塀跡
人吉城二の丸跡

呑気に構えてた?初代藩主も、嫡孫の顔を見ないまま死ぬのは不安でたまらなかったでしょう。
舅の犬童頼兄が健在なうちは、側室を迎えられる雰囲気じゃなかったかもです。

以前に犬童と相良はコインの裏表のようだ・・・と書きました。
激動の時代を共に乗り越えた犬童頼兄にとって、主家・相良家は運命共同体の気持ちだったかもしれません。

自分の娘に子供が出来なければ、養子を迎えればいい。
むろん迎える養子は、犬童一族の子弟をイメージしてたことでしょう。

だが、それは相良家にとって「家督に犬童の子弟を押し込むとは、家臣の分際を超えている」ことです。
かつて相良家では御家騒動のピンチを乗り越えるために、上村家から養子を迎えたことがあります。
その上村家だって、相良家の支族で全く赤の他人ではなかったんです。
この「不安」は、あくまでもシオの推測です。

が「犬童一族の藩独占状態と嫡男いない状態」が続けば、いずれ家督問題が浮上した時に、犬童家が相良の家督を左右することになります。
(相良家にとって)最悪の場合、犬童一族に家督を乗っ取られるかもしれない。
御家騒動が多い相良家では「何としても回避したい未来予想図」で、そのためには犬童一族を排斥する必要がある

家紋・相良 相良家紋ロゴ

二代藩主・相良頼寛は、亡き初代藩主・長毎の遺言(頼兄一族排斥)を託された幕府目付、阿部四郎五郎・渡辺図書助の両名に書面を出した。

一、清兵衛(←犬童頼兄)は父・長毎の時より気隨我儘で、江戸に呼寄せて御意見仰せ開かれても、一時は従っても、内には拙者(頼寛)や家中の者共に仇を申すべく、役者幼少から家老をしてきたので、家中の者・町人・召使までも身内の者ばかりで、たとえ意見仰せ聞けられても、拙者へ隔心を存じ、如何様の悪事をするかも知れず、呼寄せ意見することは御断り申し上げる。

一、この様にして、彼の者に在所仕置仰せ付けられても、万事拙者によき様にはしまじく、我儘は長毎時代からで、拙者の代になっては、島原乱後は、岡本の古城に隠居所を構え何たる悪事もしまじく、拙者が江戸にある時に徒党を企てるかもわからない。

一、此度、右様の事申し上げた事を彼の者が少しでも承付候えば、数年の我儘の悪事をしており、覚悟身構えることは必定で、隣国の騒ぎを仕出し申すべく、彼の者罷り在る間は、御奉公のことも通り申しまじくと案じ奉る。彼の者へ偽り申し掛かる儀は毛頭なく誓言申し上げる。急度、隠密に仰せ付け下さる様に希望し奉る。
(寛永16年12月14日)「人吉市史より抜粋」


頼兄を江戸に呼び寄せ弾劾するための段取りだったのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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