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平安の東北武士(前編)

参照文献:城館と中世史料_斎藤慎一編
論   考:平安中期における城館の機能と性格 吉田歓


えっと、古文書学の方が律令時代に触れているので、
参照文献は、時代下って平安期の東北武士について触れようと思う。
論考では将門の乱から触れているんだけど、ちょっと自分の脳みそがメモリ不足なんで「後三年の役」からです。




参照文献全体としては、史料(一次&二次)において城郭が何と呼ばれていたかって事が大きなテーマです。
史料と実際の発掘調査を検証するのは、現在個々の研究に委ねられている部分が大きい。
そんな中、近年の城郭関連で研究が最も進んでいるのは東北です。
史料との検証も、いずれ追いつくことと思います。

実は山城に関しては、中国地方から九州にかけて先に古代山城がありました。
時代が下るとともに古代山城は廃れ、我々が現在認識している「山城」が姿を現すのは室町初期からです。
理由はカンタン。戦が増えたから。^^b

南九州においても、室町中期から城郭用語が史料に確認され始めます。
室町中期から戦国期にかけて、南九州では城郭を「かこひ(かこい)」と呼称していました。
語彙としては「囲(かこ)い」から来ているらしいんですが、
相良氏の一次史料:八代日記では「かこひ」と仮名表記。
島津氏の一次史料:上井日記では「栫(かこい)」と漢字表記。

拵(こしらえ)とは手偏と木偏の違いしかないので、前後の文脈に注意しないと混同しやすい。
更に紛らわしいのは「栫(かこい)」が江戸期以降は一部地名表記で残ったということだ。
だから江戸期二次史料も前後の文脈に(以下略)

さて本題の平安期の東北だが、史料では城のことを柵と表記していました。
例えば金沢柵=金沢城です。
意図としては南九州の「囲い」に通じるものがある感じを受けます。

で、ここからビックリというか意外だったのが、
平安期の武士には【城を枕に玉砕する】という、発想自体がないことです。
負ければ普通に降伏します。

つまるところ鎌倉以降の武士と平安期の武士は別物。
中世の範囲が広い(鎌倉から室町後期(戦国含む)まで)ことに、ぶつくさ文句(勉強する範囲が~~)を言ってた管理人だったが、
意識の変革において、やはり鎌倉期は中世の黎明だったのだと感じた。

そうなると平清盛と源頼朝の戦いは、二つの時代の代表者の争い(。-`ω-)ンー?
って、専門外の自分が無い知識を捻ってもサッパリ判りません:゙;`゙;`;:゙;`;:゙`;:゙;`ヽ(゚∀゚ゞ)ブハッ

とにかく降伏した平安武士は、助命される可能性があるから降伏するわけです。
もちろん禍根を残さないためや、罪が許されないものであれば処断されるという、『武家の怖さ』と背中合わせの降伏です。

その怖さを承知で助命にかけて降伏するのは、平安武士の柵(城)に対する意識の違いから来ているのだが、それは またの話^-^
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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