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【7-1_肥前今川VS肥前千葉】通史①肥前千葉氏

データの整理ついたところで再開します。

室町後期の寛正5(1464)年10月29日、肥前千葉氏9代目・元胤が28歳の若さで急死した。
そのため14歳の弟・教胤が兄の死で家督を継いだ。
この時の執権が中村越前守胤頼で、謀反を起こした中村胤宣の息子にあたると思う。
とにかく中村一族は肥前千葉氏にとって必要なコネクションを持ってたようです。
(詳しいことは判っていません)

寛正6(1465)年5月24日「越州の乱」が起きる
これには千葉氏の家督争いが絡んでいました。

家系図・肥前千葉系図・決定

緑枠で囲んでいる胤朝が関係しています。
彼は8代目・胤紹の次男で、父・胤紹と兄・政胤を、新当主となった教胤の父・胤鎮に殺されているんです。
もともと胤紹が一時期ですが当主になったのも大内のバックアップの事でしたので、胤朝も大内に通じたんです。

自分も系図をチラ見しながら記事を書いているんですが、
肥前千葉氏の縁戚に肥前今川家(ピンク枠系譜)がありました。
で、この時期の当主が[今川胤秋]。
大内に通じた胤朝は、この今川胤秋と更に九州探題・渋川教直ともタッグを組みました。

今川胤秋が肥前千葉氏を討つという風聞がたったとも言われてますが、そこはハッキリしてません。
とにかく危機感を募らせた肥前千葉氏執権・中村胤頼が、今川の城を三日間攻撃したんです。
これが寛正6(1465)年5月20日のことで、今川家は守り抜きました。

同年の5月24日、今川サイドのリベンジが「越州の乱」と呼ばれています。
中村胤頼が越前守だから越州ね^^/
今川胤秋の兵が城を出て、中村胤頼の陣を攻撃したんですが、決着がつかないまま日没となり双方撤退しました。
これは後に和睦しました。

というのも、この年の肥前は災害ラッシュでして、だから戦どころじゃなくなったんじゃないかと推測してました。

同年6月18日、この日より雨が一滴も降らなくなりました。
   7月29日、大風が激しく吹き、大潮となって田畑に浸水被害。
このときは、肥前の南海より三里(約12km)内陸まで船で往還するほどだったそうです。

えっと、有明海の満干潮の関係で、基本佐賀の河川周囲は浸水するのが平常運転というか、いつもの景色。
佐賀県で残っている平城跡で「要害」と言われる城は、この浸水時を想定した構造になってたからなんですね。
(干潮で水が引くと湿地帯に早替わり)

そこを敢えて記述するってことは、とんでもない水災害だってこと。
難しい理屈抜きでズバリ言うと、海岸から長崎自動車道あたりまで浸水してた。
現代・佐賀市の主要部分は、すっぽり水没してたことになります。

浸水してるところに有明海の満干潮もあっただろうし、元通りに水が引くまで一ヶ月以上はかかったんじゃないかなぁ^^;

で、水が引いて「ほっと」したところに止め。
同年9月13日、西の空に大星が流れ、東の空に至って迅雷のような音を発する。
隕石かな?見た人々はパニックになったそうな(==;)

肥前に不穏な空気が漂うなかで、大内、少弐、大友にも動きがあったのだが、それは またの話^-^


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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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