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【10-3_千葉氏内紛】通史①肥前千葉氏

文明2(1470)年11月、少弐政資の介入で肥前千葉氏の内紛は激化していった。

12月ころ?室町将軍・銀閣寺の足利義政が和睦の使僧を派遣してきた。
そのため、千葉胤朝と岩部&少弐の双方が撤退することになった。
これで一旦は終わるはずだったのだが想定外の事態になった。

土一揆が発生したんです!!( ゚д゚)ンマッ!!
ネットもテレビも新聞もラヂオも無い時代。
さらに、この時代は下々の庶民に、上層部の動きなんて一々説明なんてしません。
家や田畑を胤将&岩部らに焼き払われた郷民は、とうぜん彼らを恨んでいました。

和議となったので担ぎ出された四男・胤将+岩部+加勢の少弐勢は、撤収のために不要になった陣屋に火をかけ府中を引き払って行く。
ところが経過を知らされていない郷民は「敵が国主様(肥前千葉当主のこと)に敗れて撤退するんだ」と勘違い。

家・田畑を踏み荒らされた恨みを晴らすべく「行くどぉ!!!(# ゚Д゚)・;'.落ち武者狩りだぁぁ」
と手に手に獲物を持って一斉攻撃(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
不意をつかれた岩部ら400余人が討死 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

時に文明2年12月23日~民衆のリベンジは後に「土一揆合戦」と呼ばれた
ビビった少弐勢は即効で大宰府へ引き上げ、亡き岩部が擁立した千葉胤将は金立へと逃亡した。

家紋・肥前千葉

嫡流は途絶え、大内のバックアップで庶流から当主になった胤朝だったのだが、執権同士の確執から内紛になり胤朝の求心力に陰りが出始める。

文明3(1471)年7月19日、今川義秋(胤秋の子)が一揆を企て、佐賀植木で討ち死にする。
今川家の記事で話した今川家嫡流断絶というのは、このときのことです。
で千葉秀秋が召し出され、肥前千葉氏家臣「持永家」として残るんです。

一方、少弐が千葉氏に介入されるたびに駆り出される対馬・宗氏。
多久市史(833頁)によると、宗氏は少弐への不満から勝手に対馬に帰国してしまったそうです。
以後、宗氏は大内に接近するようになり、少弐氏とは距離を置き始めます。

10月2日、大彗星(長さ1町=109m)が出て、さらに麻疹が大流行し多数が死んだ。
そのせいか、戦のほうは動きが止まります。

宗氏を失ったものの盛り返した少弐は、博多を大友と分領した(海東諸国記)
博多の交易から得る富は少弐の勢威を支えていました。

文明4(1472)年には、少弐が杠(ゆずりは)氏に対し知行を安堵しています(杠家文書)

文明5(1473)年、龍造寺豊前守家弘が、千葉胤朝から偏諱を受けて「胤家」と改名。

で、この文明5~文明8年の間、肥前千葉氏の動きがハッキリ判りません。
が、この3年の間に、千葉氏の牛頭山城を胤朝の弟・胤盛が奪っていたようです。

東千葉氏の祖・胤盛が総領として振る舞い始めたのだが、それは またの話
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

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豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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