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剛忠(龍造寺家兼)6【少弐氏、滅びの序章_前編】

明応3(1494)動きを止めない少弐に対して大内が動いた。

大内義興は淡路島に下向していた足利義材(よしき)に申し出、「少弐退治」の上意を賜る。
足利義材
「少弐は勘気の身であるのに公儀を軽んじ私に弓箭を爲す意味を得ていない。
急ぎ吉木御所を言上し少弐一族をことごとく誅殺すべし」

少弐「何が下向だ亡命将軍め!そっちがそうくるなら・・・」
明応4(1495)正月、少弐政資の子・頼資が上洛し将軍より偏諱を受け「高経」となる。
(武雄市史、歴代鎮西要略、多久市史より)
少弐の嫡男が偏諱を受けたのは将軍は将軍でも10代目・義材ではなく、11代目・義高(後の義澄)。

大内家は京都の細川家と対抗し、亡命した元・将軍を擁して京都に上洛しようとしていました。
その擁立しようとしてた元・将軍が足利義材です。

同年、大内義興は上松浦へ東尚盛、原田興種を派兵するが敗れる(by多久市史)
少弐に服属した松浦党は、大内勢を撃退した。

明応5(1496)春、少弐政資は高祖城を拠点とし長島、飯守、小田郡、荒平等の地を攻略し、嫡男・高経と共に大宰府に入る(歴代鎮西要略)

この年の大内は豊後・大友氏の家督にちょっかい出してました^^;
大友は以前に少弐に合力してましたからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
親・大内の大友当主に代わって欲しかったのではないかと・・・φ(.. ) メモメモ

そこまで行かずとも、家督のバタバタで大友は少弐を手助けする余裕がなくなります。
そっちを狙ったのかもしれません。

準備が整った大内義興。
同年12月・・・大内義興は幕府より「少弐追討令」を受けて山口を出陣!
明けて明応6(1497)1月、吉見正頼・熊谷膳直・小早川詮平・陶一族らを大内義興自ら率いて筑前入り、動員兵力は2万余騎

少弐一族必滅の構えで堂々な威容の大内軍~~豪華フルコンプ~(人´∀`).☆.。.:*・
これで滅びない少弐って・・・しぶとさが凄すぎるんだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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