剛忠(龍造寺家兼)8【龍造寺分裂_後編】

追放された亡命将軍をテコに中央政界に介入しようとする大内義興。
現将軍を後ろ盾に家中の混乱を治めようとする大友親治。

明応7年1月~2月にかけて両者が激突した。
豊前や豊後が戦になり、バタバタしてるスキをついて西千葉が小城郡高田城に戻った。

大友相手に忙しい大内義興は、西千葉に対し筑紫満門、東尚盛を差し向け、これに東千葉の興常が加勢した。
結果、西千葉一族は小城郡から佐賀郡・川副へと逃れた。

ここで西千葉の実質的総領である尼日光(初代未亡人にして11代目千葉氏の娘)が、龍造寺に加勢を求めた。

ここで龍造寺内部で意見が分かれた。
嫡男・龍造寺胤家は加勢すると言い、
次男・龍造寺家和は大反対した。

嫡男・胤家は、この時に家督を継いでいた説と継いでいなかった説があるが、それはさておき。
胤家は次男・家和の反対を押し切り、西千葉へ加勢した。

その出陣にあたり龍造寺胤家は嫡男の座を捨てた。
以降、村中龍造寺宗家は次男・家和系統となり、胤家系から宗家当主が出ることはなくなった。

このあたり非常にモヤモヤする。
西千葉氏は少弐一門・横岳家から養子を迎えた少弐系千葉氏。
少弐が大内氏に敗れ滅亡寸前である以上、西千葉に加勢するのは龍造寺全体に危険が及ぶ行為。
それと敢えて侵すのだから、それで胤家が嫡男の座を捨て龍造寺から離れたのではないだろうか。

少弐は滅亡寸前までは行ったが、男子・資元が生き残り横岳家が保護していた。
だから少弐が(また)復活する可能性がゼロじゃない。
龍造寺は東千葉(=大内サイド)を怒らせず、かつ西千葉(=少弐サイド)からも恨まれないよう苦肉の策をとったとも言える。

だからって加勢は嫡男でなくても・・・となるのだが、これは胤家の性格の問題らしい(;´・ω・)
どうしても自分が助けに行きたかったのだろう。

それで西千葉の求めに応じて加勢したのが、
龍造寺胤家、光益光廣、渋谷河内守、壬生新左衛門、鏡山平右衛門、諸富、南里、石井。

すったもんだで明応7年2月24日「川副の戦い」となり、西千葉・胤繁が敗れ弟・胤治や尼日光は筑前へと亡命した。
龍造寺胤家も母の実家・小鳥居氏を頼り筑前へと亡命した。
(小鳥居家は大宰府天満宮・別当家の一つ)

武家にとって嫡男が家を捨てるというのは大事件だったはずで、何も記録に残ってないのが逆に気になる^^;
ただ兄弟の父で当主である康家がいたので、嫡男の座を次男へスライドさせる事自体は難しくはなかったと思う。
相談の上じゃないかな~と感じるのは嫡男の座を捨てた胤家が、亡命するときに生母の実家を頼ったから。
なんだけど、細かい記録がないので想像で補完するしかない状況です^^;

こうして龍造寺は大内と少弐、ひいては東千葉と西千葉の争いに巻き込まれ、一時的に分裂した。
後に龍造寺胤家は再び龍造寺へと戻るのだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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