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北肥戦誌【1549~1551年】

天文19年(1550)

7.1、大内義隆の偏諱を受けて《隆胤》とし、7.19には《隆信》と改めた。

天文20年(1551)

9月1日、大内義隆が老臣・陶隆房(後の晴賢)に弑逆された。

これを聞いた土橋栄益は大いに喜び、密かに鑑兼擁立を同族と内談、大友・少弐の元へその旨伝えると、
反隆信の神代勝利、小田政光、八戸(やえ)宗暘(隆信の姉婿(妹婿とも))、江上武種、筑紫惟門ら19将、他に有馬・後藤・多久の者と語らい佐嘉城を囲む。

城中には龍造寺一族、鍋島、納富、小河、福地、江副、安住ら譜代の者らが居たが、防戦の手立てはなかった。

10月25日の夕刻、小田政光の老臣・深町理忠入道が城の大手門へ参上し、納富信景・福地信重を呼び出し対面し、
「隆信公の此度の御籠城、至極難儀の事と愚老見出し、今日は敵となるも明日は味方となるが侍の習いなれば御労しく存じ、主・政光へ談合し、寄せ手の面々へ隆信公の御安穏を取り付け候。どうぞ心安く今宵に城を開かれ、急ぎ何方にでも御退きあれ」と述べた。
伝え聞いた隆信は、これを信用しない。

隆信は「これは我らを易々と討ち取る計略に如かず。先年、剛忠公が水ヶ江城にあり一門悉く討たれた。それに懲りもせず騙され、この首を野に晒すよりは、城にて潔く腹を切る」と返した。

理忠は、「弓前の神に誓いて、全くの偽りに候わず。御嫌疑あるなれば、この愚老人質となりて当城へ入り申す」と発し、太刀・刀を渡して城へ入った。

これに感じ入った隆信は申し出を信じて、その日の夜半に上下老若男女200余人は佐嘉の城を忍び出、幼女に至るまでの皆が槍の柄を短く切って携え、敵の只中を押し通る。

このとき、佐嘉の侍の中には国元に残った者や、他国へ浪人する者もあった。

ただ、隆信は強かな人物であった故か、悔しがる風を見せなかった。

一行は南方の井尾村へ至ったが行く宛が無かった。

これを伝え聞いた筑後柳川城主・蒲池鑑盛は急ぎ堤津へ遣いを出して、弓取りは皆同じであると、隆信一行100余人(80余人とも)を柳川領の三瀦郡(みずまぐん)に迎えた。

隆信は鑑盛の援けにより、先年に剛忠が住んだ一ツ木村へ移り、原恵俊(原野兼俊とも)の屋敷に住まった。

また、鍋島清房の次男・法師丸(後の直茂)は千葉胤連の養子となっていたが、14歳となっていた今年、養父胤連の元を辞して、本庄の館に入った。

一方、同月26日、佐嘉城には土橋加賀の望み通り鑑兼を城主とし、自らはその後見となると、小田政光・八戸宗暘・高木鑑房・神代勝利の家人を交替の番とした。

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蒲池さん・・・ショボーン..._φ(・ω・` )
神代・・・・橘朝臣幸麿さまに肖像画頼もう~φ(.. ) メモメモ

橘朝臣幸麿さまーo(* ̄○ ̄)ゝー後で原画送りまつねぇ~
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