18・剛忠(龍造寺家兼)【西千葉氏】

長文が苦手な方は「三行まとめ」に飛んでください(^ -)---☆Wink

西千葉氏は亡き少弐政資が肥前千葉の家督に介入してできた。
肥前千葉の男系女子(尼日光)に自分の弟を婿として入れて、西千葉氏を立てた。
いわば少弐による家督乗っ取りだ。

それに対抗しているのが東千葉氏。
西と東、どっちが~と言うと嫡流は東千葉氏です。

肥前千葉の姫と少弐実弟との間に子供がいなかったので、少弐一門の横岳氏から養子を迎えた。
永正7(1510)3月13日、その養子の胤治が東千葉氏の敗れて討ち死に。
さらに永正8(1511)年9月25日、同じく養子の胤繁が18歳で死亡する。
毎年喪中(´・д・`)・・・・
胤繁の死因は記録がないので、おそらく戦死ではないかと予測されている。

一方、東千葉氏は大内の後ろ盾で力をつけ、
永正8(1511)2月、東千葉の喜胤が杵島・藤津の地を奪う「by佐賀市史、歴代鎮西要略」

少弐は筑前で再び大内に対して劣勢に立たされていたらしい。
永正9(1512)年閏4月15日、筑前守護代・杉興長(大内家臣)が大宰府天満宮満盛院に侍島の地を還付する。
(by満盛院文書)
還付ということは、侍島は元々は大宰府天満宮満盛院の寺領だったのだろう。
それを出来るということは、大内の筑前のおける勢力が盤石だということです。

少弐が劣勢なので、一蓮托生の西千葉も劣勢。
男子が次々と死んだので、西千葉氏は再び少弐一門横岳氏から養子を迎えた。
それが西千葉氏4代目・千葉胤勝(横岳資貞の子)です。
胤勝が西千葉の養子になった時期は不明ですが、おそらく2代目胤繁、3代目胤治が死んだ後だろう。

永正11(1514)3月15日、龍造寺新次郎が西千葉の胤勝から偏諱を受けて「胤久」となる「by龍造寺家文書103」
龍造寺胤久、龍造寺17代目当主。

北肥戦誌によると胤久は次男だったのだが、兄が早世したために未亡人を妻に迎えて家督を継いだのだと言う。
胤久はウィキペディアだと1500年生まれ、偏諱の時は数え15歳。
元服で偏諱を受けたのか、家督を継いで偏諱を受けたのか微妙な年齢で判断不可。

とにかく龍造寺では東千葉、西千葉両方ともに、程よい距離をとりつつ微妙な均衡の中にいた。
これは東肥前の武家なら、どこもそうだろう。
少弐と大内が常に揉めて、少弐が没落しては復活するので、西千葉とも絶縁という訳にいかないんです(;´・ω・)

同年4月、千葉胤勝が大内サイドの東尚盛を攻め城を奪い城番を入れる。(東尚盛は松浦へ逃げた)
「by佐賀市史544頁、歴代鎮西志」
この戦に龍造寺が加勢したかは不明です。

ただ、この西千葉4代目・胤勝は劣勢を跳ね返すが如く、盛んに活動するのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
西千葉の2代目・3代目が死亡。
西千葉は少弐一門横岳から養子・胤勝を迎える。
龍造寺胤久が胤勝から偏諱を受けた。
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