19・剛忠(龍造寺家兼)【西千葉・胤勝】

長文が苦手な方は「三行まとめ」に飛んでください(^ -)---☆Wink
「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用

永正12(1515)年、有馬&大村連合軍が藤津で千葉勢を破る「歴代鎮西志」(塩見町史)
史料には東か西か書いてないんだけど、自分は東千葉氏のことじゃないなかなぁって思う。
1511年に東千葉氏が杵島・藤津の地を奪ってるから、奪い返されたんじゃないかと・・・(-ω-;)ウーム

永正13(1516)年4月、室町幕府は大内義興の対明貿易の独占権を認める
そりゃそうだ。
いま大内義興は京都にいて今の足利将軍は義興が奉じて将軍にしたんだもん。
つまり他の大名が対明貿易を行うには、某S家のように密貿易をするか、相良のように大内の許可を貰うしかないんです。
大内の最盛期の財政基盤は弥増して盤石なものとなる。

同年5月、西千葉の胤勝が1511年に勝った東尚盛(大内サイド)に逆襲され敗れる「佐賀市史544頁」
むむむ~勝ったり負けたり忙しいが胤勝は諦めないもん!

永正14(1517)春、西千葉胤勝、松浦表に出陣する「歴代鎮西志」
頑張る貴方に吉報です。
同年、少弐資元が太宰少弐に任命される(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ
前後の事情が記録にないので、どういうルートで少弐が太宰少弐に復活したのか経緯は不明です。
京都に大内義興がいるのに妨害しなかったのが不思議~
対明交易に絡んでる人事かも、なんてったってアチラは先例主義だから^^b

永正15(1518)8月、京都で思い通りにならず中央政界に介入することに嫌になった大内義興が周防に帰国「北肥戦誌」「歴代鎮西志」

同年10月龍造寺胤家、日政上人を開山として本行寺を開基する「佐賀市史539頁」
シオが佐賀県に訪問した時に行った本行寺ですよ~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
胤家が作った寺なの~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

千葉胤勝に話を戻すね^^
同年、千葉胤勝は松浦党に佐志、鶴田を攻める「佐賀市史544頁」
龍造寺胤家、盛家が出陣し、筑前攻めでは先鋒となる「歴代鎮西志」
両名の戦功とあり「歴代鎮西要略」
「佐賀市史」によると永正11~15年における千葉胤勝の勝利は、龍造寺胤家と盛家の武功によるとあります。

龍造寺盛家とは胤家が高木氏から迎えた養子です。
養子に迎えた経緯は不明です。
問題は龍造寺胤家と盛家が龍造寺の分家である与賀龍造寺だということです。
龍造寺は一族全てが西千葉押しになったわけでなく、宗家次男が偏諱を受け、分家の一つが西千葉に加勢するという複雑なことをしてたんです。
肥前の情勢がめまぐるしく変わる中、大友家の方にも変化が訪れるのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
室町幕府、大内義興の対明貿易の独占権を認める
少弐資元、太宰少弐に任命される
千葉胤勝の勝利を支えたのは与賀龍造寺
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: 朧豆腐さま

ご無沙汰してます^^

> 資元の太宰少弐就任は、「九州の事情よう分からん」「でも少しでも味方欲しいし、公方様の権威見せつけたい」っていう幕府方の意向が義興を無視して先行した感じががが

それが一番正解かもですね。
だんだんと公方が義興の思い通りにならなくなってきたのかも。


> 龍造寺もいろいろと黒歴史がありそうですな
> 馬場に謀殺された悲劇の一族の裏側……おっと。誰か来たようじゃ

夜中の宅急便には気を付けて下さい^^/
ではでは~

ごぶさたしとりやす

めまぐるしい季節の変化で体調管理も大変でございまする
お互い健康でありたいものでございまする

資元の太宰少弐就任は、「九州の事情よう分からん」「でも少しでも味方欲しいし、公方様の権威見せつけたい」っていう幕府方の意向が義興を無視して先行した感じががが

義興「おい聞いてねーぞコラ」
って感じで山口へ引き上げてしまった感じがしまする

龍造寺もいろいろと黒歴史がありそうですな
馬場に謀殺された悲劇の一族の裏側……おっと。誰か来たようじゃ

ではでは~
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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