20・剛忠(龍造寺家兼)【大友、家督相続】

長文が苦手な方は「三行まとめ」に飛んでください(^ -)---☆Wink
「」内は自分で確認、( )内は参照文献より引用

筑後・星野氏の大友に対する謀反は永正10(1513)に鎮圧された。
このことは大友の筑後統治に大きく影響する。

これで落ち着くかに見えた大友だが、今度は元加判衆(家老クラス)朽網親満が謀反を起こした。
嫡男である義鑑を廃して、13代目の六男を立てようとしたのだ。
ちなみに義鑑の父・義長は19代目^^;
13代目が子だくさんだったのは別にして、あまりにも庶流すぎて失敗するはずだ。
だいたい13代目の六男は出家してて、大友当主になる野心ゼロでした^^;

「田尻家文書20」によると、この謀反に筑後蒲池氏が呼応してたらしい。
筑後は未だ不安定だったのだろう。
で、翌年永正14(1517)11月、朽網親満に呼応した蒲池、黒木、川崎ら筑後国衆が蜂起。
永正15(1518)に朽網親満が大友義長に討伐軍に敗れているので、おそらく筑後で蜂起した国衆も鎮圧されただろう。
同年3月6日に筑後・田尻治種が大友義鑑から上妻群薬丸12町を安堵されている「田尻家文書21」
ちなみに朽網も、このあと記録から消えるので死亡したと見られている。

同年8月、大友氏19代目・義長が死亡。
※大内義興が京都から周防に帰った年。
家督を継いだ大友義鑑は未だ若年(数え17歳)だったので、祖父・親治が死亡(大永4)するまで補佐を受けた。

で、死ぬ前に大友義長は「大友覚書条々」という遺言みたいなものを残した。
全文はシオも知らないんだけど、その中で特徴的なものがある。
二、筑後星野氏に対する警戒
三、肥後対策、特に阿蘇惟長への対策
つまり大友では肥後統治と筑後統治をセットで考えていたんです。

阿蘇惟長は大友の傀儡として肥後守護職の家柄である名門・菊池氏の家督を継いだのだが、
菊池家臣とソリが合わず(誰とも合わない菊池家臣www)惟長本人が嫌気がさして地元・矢部に帰ってしまった。
いったん阿蘇家を出た惟長が出戻ったせいで阿蘇家が揉めるんだが、それは相良氏篇で書いてるので割愛。

大友義長は「もし再び阿蘇惟長が肥後そのものを欲することがあれば、筑後統治も意のままにならなくなる」と警戒してたんです。

この筑後と肥後の統治をセットで考える政策は義長死後も続きます。
なぜなら肥後で何か起きるたびに、筑後で呼応した国衆が蜂起するからです。

ということで筑後とセットである肥後・相良氏を通じて肥後戦国史を扱ってるわけです^-^b
で、大友の筑後に関わる数年間を話したところで肥前に話を戻すのだが、それは・またの話 by^-^sio

ここまで三行まとめ(`・ω・´)キリッ
元加判衆(家老クラス)朽網親満が謀反を起こし呼応した筑後国衆も鎮圧される。
大友氏19代目・義長が死亡し義鑑が家督を継ぐ
大友氏は筑後と肥後の統治をセットで考えていた。
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時乃★栞

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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