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【大内氏と大内義隆】シオ的武家家伝


九州戦国史において、大内氏の影響・存在は極めて大きい。

必然的に触り程度でも基礎知識が必要になる( ̄ω ̄A;アセアセ

記録に出て来るのは平安時代末期からで、周防(すおう=山口県)で大きな勢力だったらしい。

鎌倉時代に鎌倉幕府の御家人になったのだが、正確な時期は判っていない。

「南北朝の争乱」で、最初は南朝(=宮方)として働き、1358年に周防と長門を統一する。

慌てたのは北朝(=武家方)の足利尊氏だ。北九州と接する要地が南朝方では困る。

そこで周防・長門の守護職をエサに大内氏を北朝側にシフトチェンジさせた。

九州における南朝方討伐で大きく貢献したのが大内義弘だ。

家督を継いで相続した周防・長門の守護職の他に功績として石見・豊前・和泉・紀伊の守護職になり、
さらに日明貿易で莫大な富を得る。

が、1399年義弘は室町幕府に対して謀叛(応永の乱)を起こし討たれる。

これは大内氏が強大になりすぎたのを警戒した足利義満(3代目将軍)の陰謀により、
挑発に乗ってしまったのだとも言われている。

                  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7f/%C5%8Cuchi_Yoshitaka.jpg/200px-%C5%8Cuchi_Yoshitaka.jpg
ウィキペディアより大内義隆画像

義弘の死後、大内では代替わりのたびに揉めてます( ̄ω ̄A;アセアセ

北九州では少弐氏・大友氏と争い、身内の謀反もあり、
明国(=中国)との貿易の利権を巡って細川氏と争い、
さらに尼子氏が台頭してくる。

とはいえ歴代当主に失政はなく、むしろ優秀。

歴代当主の蓄積した実績を活かし、大内氏の最盛期を迎えるのが大内義隆です

1528年・大内義隆は周防・長門・石見・豊前・筑前・備後・安芸の七カ国の守護職になる。

明国との貿易を復活させ巨万の富を得た義隆は、その財力で朝廷と室町幕府に多額の献金をしたんです。

1536年・竜造寺氏が少弐から離反し、大内の傘下となって少弐氏を滅ぼす。

さらに大友氏(宗麟の父)と和睦し、北九州の覇権は大内義隆のものとなる。

だが大内氏の最盛期は長く続かなかった。

1542年・尼子氏との戦いで敗北し期待の養子(甥)が初陣で死んでしまう

これでガックリ _| ̄|○  義隆は武将として戦場に出る事もなくなり、雅趣味に走った。

義隆は40近くなっても子宝に恵まれず養子を迎えたの。

とっても期待してて元服の時には足利将軍家から名前を一字「晴」、拝領してる。

それが初陣で戦死じゃなくて、溺死したんです。

敗北して退却する時に、養子が乗船した小船に「我も我も」と鎧兜の武者達が乗り込んだ為に重みで沈没 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
という、プチタイタニックな死に方でした( ̄ω ̄A;アセアセ

一説によると水を吐き出させて、一度は息を吹き返したけど死亡したらしい。

歎き悲しんだ義隆は、養子の菩提を弔うために再び足利将軍家から名前を一字拝領し、
死んだ養子の名前を「晴持⇒義房」に改名してるほどです。

  


数年後に実子が産まれているけれど、失った英気・覇気は戻らなかった。

戦乱を避けて山口に来た公家たちを次々側近に取り立てたため、家臣たちの不満が溜まるし、
さらに義隆の困る所は衆道(しゅうどう)にハマッタことです( ̄ω ̄A;アセアセ

義隆が子宝に恵まれなかったのは、おそらく衆道趣味に走っていたからだろうし、正室とも離縁している。

愛人(男の子)との逢引に、5時間もかけて待ち合わせしてたんじゃ子作り出来ないぉ( ̄ω ̄A;アセアセ

その5時間かけて逢瀬をした相手が「大寧寺の変」で謀叛を起こした陶晴賢(すえはるかた)だ。

だから後世「謀叛は男色のもつれ」などと揶揄されたが、それだけが理由では無いだろう。

義隆は周易という儒教を元にした占いに凝りだし、
易で家臣たちの風水火土を占い、それに基づき強制引越しや役職を決めたり、
果ては生まれた子供の里子先まで占いで決めて家臣を混乱させた。

家臣たちは、義隆に愛想が尽きてしまったんです。

義隆は義隆で、すっかり退嬰的になり、陶の不穏な動きを報告されても具体的な対抗手段は講じていない。

やったのは「陶の怒りが治まるように~と祈祷」したのだけれど、
肝心の陶に呪詛と誤解されて怒りを倍増させた,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

1551・天文20年9月1日に大内義隆は「大寧寺の乱」で陶晴賢が起こした謀叛により自害します

【大寧寺の井戸】

謀叛が起きて義隆ら一行は、山口から長門まで落ち延びたが海が荒れて船を出すことが出来ない。

仕方なく陸路を15kmほど引き返し大寧寺に籠もった。

大内義隆は喉の渇きを覚え、何気なく水を飲もうと参道脇の井戸を覗き込んだ。

「・・・わしの首が・・・・・・・無い・・・・・ ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!」

そこに当然あるはずの義隆の首が、井戸の水面に写っていなかったのだ!!

命運が尽きたのを覚った義隆は静かに自害したという。

その後、井戸は参道の改修で潰されたが、
大内義隆が兜を脱いで置いたという「兜掛けの岩」が残り「姿見の池」が再現されている。

お盆向けの逸話でした^^b

最初、陶は義隆の息子を立てようと考えたのだが、後難を恐れて殺したので大内家の嫡流は絶えた。

義隆次男は未だ10歳にも満たず、女の子に変装して脱出し潜伏してたが、翌年に見つけられて殺された。

女の子に変装していたせいだろうか、次男は死後に性器を切り落とされ首と供に山口へ運ばれた。

少年を哀れんだ村人が次男のために社を作ったそうだ。

陶晴賢が選んだ傀儡当主は大友義鎮の異母弟で、そのために北九州の政情は目まぐるしく変化するのだが、それは・またの話 by^-^sio

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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