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北肥戦誌【1547年】

天文16年(1547)

龍造寺胤栄(村中宗家当主)は自ら中国へ赴き、大内義隆へ少弐の暴虐を訴え、義隆はこれを将軍・義晴に訴えると、少弐誅伐の命が降りた。

隔して6月、義隆は胤栄を豊前守とし、肥前の守護代として少弐退治を命じた。

7月下旬、胤栄は肥前の本領へ入り、胤信(後の龍造寺隆信)と話合い、少弐追罰の為に東肥前へ出陣した。

少弐勢の郎党は各所でこれを防ぎ、冬尚実弟の千葉胤頼も牛尾の城にて防戦に努めた。

胤栄は、閏7月に杉隆満(大内配下・筑前守護代)へこれを訴え、大内の筑紫勢を加えて冬尚の勢福寺城へ押し寄せる。

少弐勢は老臣・江上元種、宗本盛(少弐家老)、馬場周詮ら、三根・神埼で防戦すれども討ち負け、

8月5日「米田原の戦い」で、宗本盛は苔野口にて討ち死にすると少弐方の意気は消沈、

10月16日、ついに冬尚は勢福寺城を落ち延びた。

三根・神埼などの少弐領は大内に没収され、龍造寺家がその境の番となった。





・・・・・・もし胤栄が長命してたら、竜造寺の歴史はどうなっていたんだろう・・・
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時乃★栞

Author:時乃★栞
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