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【相良氏の場合】関ヶ原/大垣城5栞53

2位と3位を行ったり来たり~
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メイン出典元「南藤蔓綿録」^^/


「関ヶ原の戦い」・・・そもそもの始まりは「上杉征伐」だった。

東軍の諸将は「上杉征伐」のために、徳川家康の元へ馳せ参じたんです。

そんな中・・・西国大名にとって困るのは、上方で石田三成が挙兵したことです。

なぜなら「上杉征伐」のために北上したはずなのに、上方まで来たところで石田三成に足止めをくらうから( ̄ω ̄A;アセアセ


立花宗茂のように「秀頼公(西軍)に馳走仕らん」と旗幟鮮明な方なら問題はない。

だが鍋島家のように「上杉征伐」に参加するつもりだった人には、非情に迷惑。

まぁ鍋島家の場合は、諸事情で出陣が遅れて、上方到着が「三成挙兵後」という半ば自己責任でもある^^;

九州は肥後の相良氏も、石田三成に引き留められ「不本意ながら」西軍入りした家の一つだった


ということに「南藤蔓綿録」ではなっているのだが、なにせ成立年月日が江戸期。

後だしジャンケンの如く、何とでも言い繕うことは可・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

てことで、1~4話までの大垣城編とでは、時系列の出来事で若干相違が生じるのが、そのへんは生ぬるい目で見て下さいませ(*´pq`)クスッ



(馳ぽん提供~大垣城画像~銅像は関ヶ原の後に初代藩主となった戸田様~)

1600年(慶長5)6月~家康が上杉征伐の為に奥州へ下向し、伏見城へは鳥居元忠を置いた。

その報告を聞き、真偽を確かめるべく相良頼房(20代目当主)は犬童頼兄(いんどう よりえ/家老)らを連れて上洛した。

ところが既に家康が出陣していた為、帰国しようとしていた処へ石田三成より使者が来た。

石田家使者:近いうちに伏見城を攻撃するから加勢してくれ


当初これ(西軍)に与する気はなかったものの、使者が再三現れる。

使者:石田自らが屋敷に出向いてでも頼む!


とまで言われ、ならばとこれに同意し出陣した。

(( ̄ko ̄)<小大名の相良氏に石田三成が幾度も懇望するか?と突っ込んではなりませぬ)

それでも本意ではない事を家康に伝えるべく、恒松吉助を家康の奉行所と井伊直政の元へ差遣した。
1)上洛の意図は家康に逢う為であったが既に家康がいなかった事。
2)虚しく大坂から帰国する処に石田方に押し留められた為、止む無く事に及んだ事。
3)もし上方筋(三成ら)が出馬に及んだ際にはそちらに味方する事。
この3点を伝えさせた。

恒松吉助は中間・赤川源三郎を伴い関東へ下り、既に江戸を発っていた家康を追いかけて、下野国の古川で追い付いた。(一日で何km移動してるんだぉ~(゚ロ゚屮)屮)

吉助が井伊直政へ書状を渡し口上を伝えると、すぐさま直政が家康に伝えたとの事。


相良家紋

話に誇張があるような気がしないでもないが、犬童頼兄の器量なら西軍加担の前に「保険として」井伊直政にコンタクトとるくらいはしてそうだ。

同年7月18日~相良勢は伏見城攻撃に参加。

8月1日未の刻(13時~)に伏見が落城。

頼房ら大名はそれぞれの屋敷に戻ったようだ。

その後、石田方から秋月種長・高橋元種・相良頼房の三名へ「近い内に家康の大軍が上洛するから勢田橋を固めてくれ」と使者が来る。

頼房は「これが不本意な合戦で、家康に弓引く気はなく、これを承諾しかねる」と述べる。

すると石田は「今回の事が自らの私心によるものではない証拠」として垣見家純と熊谷直盛を差遣してきた為、是非無く5人(秋月・高橋・相良・垣見・熊谷)で在番に及んだ。

(秋月(兄)・相良(義弟)・高橋(実弟)は、前回話したように縁戚・兄弟)
(さらに領地が日向と肥後と隣接しているので「朝鮮の役」でも同じ陣に所属してます)

その後、石田方が大垣城へ入ると、勢田の番衆5人もすぐさま大垣城へ来るよう伝達があった。

( ̄ko ̄)<あっち行け~こっち行け~と何だかなぁ~でつ

8月25日に勢田を発って佐保山を、二日目には伊勢路の白瀬越というところを越えていた。

その最中、雨が降りそれが晴れて風が吹き始めた。

ふと高所から見える十町(1km)ばかりの場所に2~300程の輝きが見える。

もしや「敵の伏兵か」と思い足の早い者に物見をさせると、芋の葉に雨の滴があり、それが風に揺れているだけと判った為、すぐさまそこを通り大垣城すぐさまそこを通り大垣城へ入った。

「1k先」の「葉っぱについた雨の滴が光った」のが見えるって、凄い視力だ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚爆)ブハッ!

おそらく「家康西上してくる」ということで、行軍中もピリピリ緊張していたんでしょう。


大垣城本丸には福原長堯、二の丸には秋月種長・高橋元種・相良頼房、三の丸には垣見家純・熊谷直盛・木村由信とその子・伝蔵がそれぞれ在番となった。

で、井伊直政への使者となった恒松吉助と中間・源三郎は、家康からの返書を深田の泥の中へ隠した上で大垣へ入城。
(石田方が美濃の山中で往来する者を改めていたので手紙を隠した)

すぐさま犬童頼兄に伝え、秋月・高橋とも(寝返りの)密談に及んだ。

9月14日に井伊直政が勝野五兵衛という者を大垣城へ差遣し、福原・垣見・熊谷らを誅伐し、忠節を尽くすよう伝えさせよう~~~~

とした所へ、相良からの使者である宮原新助・犬童三郎兵衛が井伊直政の元へ現れた。

宮原と犬童は、以前に直政に述べたのと同じ事を伝え、且つ「垣見・熊谷らを討ち果たすので検視役を一人遣わしてほしい」と伝えた。

井伊直政は宮原新助に(元々派遣するつもりだった)勝野五兵衛を付けて15日の晩に大垣へ戻した。

南藤蔓綿録には関ヶ原・西軍敗北が(相良頼房や秋月・高橋へは伝わったとして)他の城将が知っていたものかなどの記述はありません。

ただ書庫「九州の関ヶ原」で紹介した「垣見家純・最期の手紙」によると、西軍敗北の事実を既に知っています。

大垣城攻撃側・水野サイドを検索すると「西軍敗北」の情報を知らせるために「大垣城の囲みを一度解いた」(主戦場から逃げた兵が大垣城へ逃げ込むから)

とあるので「西軍敗北」は一部上層部のヒ・ミ・ツではなく、雑兵のはしばしまで知ってたのではないでしょうか。

さらに「福原・垣見・熊谷らを誅伐し~云々」の裏切り誘いの密書は、水野から友・秋月へも届いていたらしい。

寝返り誘いルートは、複数あったと見るべきでしょう。

裏切ることに迷いはない。主戦場で敗北した以上は大垣城の籠城に戦略的な意味はないのだ


猛将タイプ・相良頼房+武闘派タイプ・秋月種長+画策得意・高橋元種+切れ者相良家老・犬童頼兄。

ベテラン勢の具体的な作戦会議は、早々とまとまったのだが、それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen
相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
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Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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