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【相良義陽73_天草と薩州家と 】

天正1(1573)年・・・天正年間の始まりで最初に起きた激震が「信玄公の死去」です。
信玄公という反織田勢力の希望☆★が潰えたため、足利義昭が織田信長に o( ̄ー ̄θ★ケリッ京都を追放される。

天下の動きが激しくなるのと比較すると、九州は未だ国人領主たちが元気一杯でして、各有力戦国大名たちは、彼らのコントールに苦慮していました( ̄ー ̄A 汗フキフキ

後年の「暗君無し・戦国最強伝説」の島津からはイメージが湧かないと思いますが、天正1年(1573年)の段階で、島津は抵抗する国人を鎮圧出来てなかったんです。

天正2(1574)年~大隅の国人・肝属氏が(やっと)島津家に降伏する。
これで薩摩国・大隅国に島津に逆らう国人はいなくなり、薩摩隼人の有り余るエネルギーは外へと向けられます。
逆を言えば、島津を潰すチャンスは天正1(1573)年までが限界ギリギリ、とも言えるでしょう。

天正2(1574)年5月4日~義陽の次男・頼房誕生~
秋月竜子のダーリン&後の人吉藩初代藩主です\(≧▽≦)ノ

地図・天草関連
(天草地方地図~中央下部にある出水は島津義虎の城)

さて、この天正2(1574)年ですが天草地方の国人・天草鎮尚と島津分家筆頭の島津義虎が不仲になった。
もともと天草地方は相良家の勢力下でした。
(明との交易ルート保全のため16代当主の頃から介入)

永禄8(1565)年に島津義虎が天草諸島のうち長島を攻撃して堂崎城を抑えます(城主は天草一族で討死)
ところが頼みの相良は名和氏の豊福城攻略⇒ゲッツの方を優先した(義陽が直々に出陣)
おまけに相良と島津は「和睦⇒相良裏切り⇒交戦」を繰り返すこと3度で、周辺国人には去就が難しいったらありゃしない!!!

その後、永禄12(1569)年には大口城が降伏、元亀3(1572)年に同盟相手の伊東が木崎原で大敗北、
てな感じで相良ジリ貧が香ばしくなってきてて、この流れなら天草氏が島津に靡いても不思議じゃなかったんだが、
不仲理由は天草鎮尚がキリシタンの洗礼を受けたせいです。

天草鎮尚の弟が洗礼に大反対で、ついに兄弟で戦になってしまい、天草鎮尚弟は島津義虎を頼ったの。
だが結局、弟は兄・天草鎮尚に敗れてしまい、弟は天草を長年バックアップしてた相良の方を頼って亡命した。

てことで天草鎮尚と島津義虎の気まずい空気だけが残った^^;

ただ、天正4(1576)年に天草氏は島津と一旦は和睦します。
いっぽう肥前佐賀ですが、熊さんが起きて来ました( ̄ko ̄)チイサナコエデ

天正3(1575)年に龍造寺隆信(別名・肥前の熊)が北肥前を平定。
天正4(1576)年には南肥前に侵攻。

戦国における南肥前とは有馬の本貫地・島原半島のことです。

島原半島が南肥前なら、天草は超近所Σ(´Д`;)はぅ
龍造寺の島原侵攻と天草と薩州家の和睦は無関係ではないでしょう。

北九州地方がキナ臭くなって来た頃、島津と相良は4度目の和睦を結ぶのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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