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【相良義陽80_降伏・後編 】

この天正9(1581)年は龍造寺が筑後柳川の蒲池氏を滅ぼした年(5月のこと)
結果、筑後が不穏な情勢になり隆信は神経質になっていただろう。

あぁ・・・父・晴広や祖父・上村頼興なら筑後で何かあれば、即座に動いただろうに・・・
創業の苦労を知らない義陽には、筑後の変事は常に北肥後を脅かす事に気づかなかった。
てか誰も進言しなかったんか(--;)

龍造寺家文書によると、阿蘇筆頭家老・甲斐宗運は天正9年3月17日に一族連盟で起請文を出している。
北肥戦誌には柳川の蒲池を滅ぼした後の6月、起請文あるいは人質を出した者として甲斐宗運(と一族)を挙げている。
これは龍造寺隆信の嫡男・久信(政家)が柳川に入る前だったと記している。

相良義陽は・・・・・・・・・・ドンケツ・・・一番最後の9月8日(; ̄ー ̄)
もちろん9月になってから起請文出してるのは相良だけだil||li _| ̄|○ il||l

龍造寺家文書によると相良義陽は起請文の中で
水俣の事、難儀候の事と記している。
御疑心に対し(中略)別心は毛頭無い
隆信が相良が本気かどうか疑っていたのだろう。
いち早く行動した阿蘇家老の甲斐と自分のケツに火がついてから起請文を出した相良とでは、龍造寺の心象が良かろうはずがない。

さらに義陽は起請文で最後の日付と隆信の位置を同じにした。
・・・この期に及んで対等な立場でいようとした。
相良に滅んでもらっては政治上宜しくはないのだが、安定してない筑後の人心を安定させる方が先だ。
だが阿蘇、甲斐の要請を無碍にしては北肥後国衆の信を失う。
だから阿蘇の御船までは援軍を出した。

義陽は嫌が応にも外交に失敗したのを悟っただろう。
島津との和睦を決意した。
和睦といっても実質は相良の降伏で、主導権は全て島津にある。
そして島津側の条件は義陽が提示したものよりも厳しかった。

当然だろう。
過去の経緯から「相良の裏切り」を誰よりも警戒しているのが島津義久だ。
二度と抵抗できないように、ガッツリ締め上げる必要がある。

相良「人質として家臣を・・・」
島津「人質は嫡子と次男!」

相良「領地の割譲は芦北の水俣・津奈木・佐敷・湯浦の四ヶ所で・・」
島津「芦北の七ケ所!」

島津家臣一同の起請文(O ̄・ ̄)ノ~~~□□□100通以上
相良Σ( ̄0 ̄ノ)ノヒィィ~プレッシャーキタ~

島津家では「過去の轍は踏むまい」と、厳しい要求を出し相良を雁字搦めにした。
そして遂に島津から阿蘇征伐の動員命令が義陽に下るのだが それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

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