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北肥戦誌【1545年】~老人力発動!

天文14年(1545年)

1月初旬、有馬勢は龍造寺一族・鶴田越前守の獅子城を攻めて、7日に攻め落とし、すぐさま城警固の為に馬渡主殿助俊信を入れ置いた。

鶴田の兵は12日に急ぎ俊信と戦う。

俊信は手の者を下知して防戦し、鶴田勢を悉く坂下に追い落とした。

打ち負けた鶴田勢はその夜、城の後ろの方へ廻り険阻な場所を登って、密かに城中へ近付くと鯨波を上げて夜討ちを仕掛ける。

馬渡勢は利を失い、俊信主従60余人が討ち死にした。

鶴田は居城を取り返した。

龍造寺豊後守家純らは、昨年の冬より多久城を攻めて遂に18日に落とした。

だが、その搦め手に向った龍造寺新五郎・於保備前入道・副島五郎左衛門尉・副島右馬助猶房らは、14日に志久峠で、平井・前田・井元に討ち負けて悉く討たれ、

また、長島表に向った龍造寺勢も、15日に藤津冬野原の戦で有馬勢に討ち負け、龍造寺右京亮胤直が討ち死にした。

18日追い縋る敵と戦いながらようやく佐嘉へ戻った。隔して、有馬・松浦勢に加えて少弐19勢は水ヶ江城を囲んだ。

その勢およそ2~3万と見えた。

1月18日(『北肥戦誌』には天文15年とあるが不自然)、龍造寺宗家・胤栄の居城・村中城と、千葉胤勝の小城城を少弐・有馬勢が攻撃、千葉家は降伏、胤栄は大内家の筑前守護代・杉十郎隆光を頼って落ち延びる。

馬場肥前守頼周は、剛忠の一門を処々にて大半を討ち取り、その上、城を取り囲んだことで心中では大いに喜びながらも、外面は眉を潜めて水ヶ江城へ現れると、剛忠入道に対面、小声にて述べる。

「此度の西肥前退治は有馬討伐の為に非ず。龍造寺が大内に通じて居ると讒言する者ありて、冬尚公御立腹され貴家を絶やさんとしておるのです。ここは冬尚公へ参じられ咎なき由を申し開かれれば、この頼周も御辺に対し悪し様には申しますまい」と述べた。

龍造寺家中では、「なまじ下城されて憂き目に遭うよりは、当城に残るべきです」としたが、

剛忠は「野心の名を得て死するは弓取りの本意に非ず」と、

22日に水ヶ江城を明け渡し、23日に一門を諸所へ分散させた。

家純(隆信祖父)・家門・澄家は筑前へ落ち、河上の宿へ一泊した。

(馬場)頼周は神代勝利と示し合わせ、500余騎で河上を囲み鬨を上げた。

家門は謀られたと知り、打って出るも全員が討ち死にした。

周家(隆信の父)・家泰・頼純は24日、冬尚への申し開きの為にと祇園原に至った時、頼周の伏せ勢により討ち取られた。

頼周は計略により容易く討ち取れた事に喜悦し、6人の首級を踏み付けるという不敬を行う。

剛忠は筑後国・柳川の蒲池家を頼っていた

その地で一族が討たれたと聞き、悲嘆に暮れ憤激すると、「100ヶ日を過ぎぬうちに頼周の首を見なければ、この老命を縮めて再び本国には帰れない」と三日間断食した


(少弐)冬尚は水ヶ江城へ馬場・神代・小田の家人を交替の番として入れる。

3月、剛忠は龍造寺に誼ある者を集い、水ヶ江城へ向かうと、城番であった小田政光の家人らは一戦にも及ばず城を明け渡した。

その頃、頼周は冬尚を牛頭城へ移すべく、普請の為に子息・政員と共に祇園山にあった。

そこへ4月2日、千葉胤勝(或いは胤連)の軍勢が剛忠へ同心し襲い掛かる。

頼周が防戦する中、千葉家臣・矢作左近将監、江原石見守(神代勝利に夢を売った人物)は水の手から城内へ忍び入り、城へと火を放った。

馬場の手下らはこれを討ち取らんとするも、城の普請をしていた者らは皆が小城郡の者らで在り、千葉勢に同心して鍬・鎌などの農具を持って城方へ敵対した為、馬場勢は防戦しきれず、裏道から自らの居城・綾部を目指した。

馬場家臣の半田平右衛門が木の枝を折って道標を作っていたのだが、頼周は黒岩という処からそれを見失い、大願寺野へ迷い出た。

その地の川上山へ逃れ入ると、ここに住まう寺家・社家の者らは「此人は以前、不義の行いを致し、社内で数多の人を討ち、血を流せし神敵である」と、頼周らに襲い掛かる。

頼周はそこも逃れ出て川へ入った頃、千葉の軍勢に追い付かれ、政員は野田家俊に討ち取られる。

頼周は社家に走り込み、土民の用意した芋釜の穴に隠れたが、加茂弾正という者から穴より引き摺り出されて討ち取られた。

剛忠は、頼周と政員の首級を北佐嘉へ向かう途上の坪上という地で検分した。

野田石見守は剛忠へ、「頼周は御一門の首を踏み付けたので、我らも彼奴等の首を水ヶ江の城門の下に埋め、出入りの者に踏ませるべし」と述べたが、

剛忠は、「それは狂人を真似る不狂人であり、左様な情けなき事は努々あるべからず」と返し、二人の首を懇ろに弔わせた。

同月、更に大内勢の助勢を得て、宗家・胤栄も村中城を取り戻した。

剛忠は、「近年不運にして子孫悉く不慮の害に遭う。是に於いて善根を以って万部に満たせたし」

といい、天文7年より行わせていた法華経万部の修読が九千部あったのが、この年千部を修業し、合計一万部成就となったのを期に、

天文14年11月に城内に造らせた仮道場にて、毎日自ら焼香礼拝すると共に、

布施も長老には貨幣50貫ずつ、平僧には10貫ずつとし、大衆の為に休息所100間・饗応所30間を設け、

かねてより蓄えていた財物を悉く蔵から出し、町の辻々に高札を立てて貧民に施し、領民に貸していた金や米を悉く免除し徳政を行った。


「武家は下は三歳児から上は90過ぎのジー様まで油断してはならぬのだ」by東海の覇王
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Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
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