35【5激突!大内VS大友+少弐】
緑文字=北肥戦誌、自分で確認した史料
青文字=自分では未確認
黒文字=管理人の補足、所感
筑前から筑後へ攻め入る陶興房。
(大友サイド)の久留米城、安武城を落とす。
天文2年(1533)2月、大内義隆、陶隆房を興房の補佐として九州へ遣わす。
3月3日、三根郡千粟村で合戦
3月19日陶興房が筑後から筑前へ入る。
この場合は戻るが正しいかな?^^
陶興房は疲れを見せずに連戦に次ぐ連戦。動きっぱなし。
追いかけてる管理人の史料を見る目が泳ぐ^^;
陶興房、筑前から肥前へ(少弐サイド)宗秀恒の鏡山城を落とす。
4月6日陶興房VS少弐資元。肥前神埼郡(石動村と大曲村)で合戦
北肥戦誌だと少弐勢は馬場、横岳、宗、出雲、小田、犬塚になってます。
原田五郎(陶に同心)+仁保加賀守(大内配下)怡土、志摩郡の少弐派の者や上松浦の者らを打ち従える。
更に肥前・神崎郡に入り少弐を攻撃しようとする。
龍造寺胤久と千葉喜胤は大内側に馳せ参じる
ここでやっと龍造寺が出てくる^^b
龍造寺胤久は本家の方。千葉喜胤は東千葉です。
龍造寺本家は大内サイド。
龍造寺家兼は少弐サイドでした。
本家と分家が敵味方に分かれるのは戦国ではよくある話です。
少弐資元・冬尚親子、馬場・横岳・姉川・龍造寺家兼の協力で多久の梶峰城から神埼郡勢福寺城へ入る。
少弐が大友に味方した為に肥前も巻き込まれた。
被官である龍造寺家兼は少弐を守らなければならない。
次々と戦火が広がり戦は終わる気配を見せない。
大内VS大友の激突、「勢場ケ原の戦い」まで、残すところ後一年なのだが、それはまたの話^ー^
青文字=自分では未確認
黒文字=管理人の補足、所感
筑前から筑後へ攻め入る陶興房。
(大友サイド)の久留米城、安武城を落とす。
天文2年(1533)2月、大内義隆、陶隆房を興房の補佐として九州へ遣わす。
3月3日、三根郡千粟村で合戦
3月19日陶興房が筑後から筑前へ入る。
この場合は戻るが正しいかな?^^
陶興房は疲れを見せずに連戦に次ぐ連戦。動きっぱなし。
追いかけてる管理人の史料を見る目が泳ぐ^^;
陶興房、筑前から肥前へ(少弐サイド)宗秀恒の鏡山城を落とす。
4月6日陶興房VS少弐資元。肥前神埼郡(石動村と大曲村)で合戦
北肥戦誌だと少弐勢は馬場、横岳、宗、出雲、小田、犬塚になってます。
原田五郎(陶に同心)+仁保加賀守(大内配下)怡土、志摩郡の少弐派の者や上松浦の者らを打ち従える。
更に肥前・神崎郡に入り少弐を攻撃しようとする。
龍造寺胤久と千葉喜胤は大内側に馳せ参じる
ここでやっと龍造寺が出てくる^^b
龍造寺胤久は本家の方。千葉喜胤は東千葉です。
龍造寺本家は大内サイド。
龍造寺家兼は少弐サイドでした。
本家と分家が敵味方に分かれるのは戦国ではよくある話です。
少弐資元・冬尚親子、馬場・横岳・姉川・龍造寺家兼の協力で多久の梶峰城から神埼郡勢福寺城へ入る。
少弐が大友に味方した為に肥前も巻き込まれた。
被官である龍造寺家兼は少弐を守らなければならない。
次々と戦火が広がり戦は終わる気配を見せない。
大内VS大友の激突、「勢場ケ原の戦い」まで、残すところ後一年なのだが、それはまたの話^ー^
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