北肥戦誌【1541年】

天文10年(1541)

水ヶ江城へ冬尚が唯一人で来訪し、剛忠(家兼ジーちゃんのこと)へ面会を求めた。

奥へ通された冬尚へ剛忠は
「正気の沙汰とも思えぬ有り様ですが、何用にて御渡りに御座いましょうや」

と問えば、冬尚は「私は今、大内に家を削られ断絶の憂き目を見んとしている。これを天運と言いつつも遺恨は止むものに非ず。昨今、国中を見廻すに、御辺は末頼もしき御仁なれば、亡き父・資元の頃と変わらず、龍造寺が御家に何卒お力添え頂き、廃れいく少弐が家を取り立てて頂きたく御頼み申す。もし承らざれば命を白刃に縮め、根を黄泉に報じます」と述べた。

剛忠は恨みを思いつつも、旧恩を安んじこれを承るとした。

結果、剛忠の次男・家門を後見とし、江上元種、馬場頼周と共に補佐する事となった。

その頃、多久城主・多久宗時が少弐冬尚から有馬晴純へと誼を変じた。

不意の恭順に晴純は喜び、千葉胤勝・千葉胤連親子と不和である千葉喜胤の小城へと派兵、千葉氏を討ち果たし、その先の佐嘉・神埼へも討ち入り、少弐・龍造寺を滅ぼさんと欲する。

須古城主・平井経治、前田家定 並びに、昌永左近大夫が先陣となった。

東に少弐、西に有馬と敵を抱えた千葉氏の危難を知り、龍造寺家門は小城へ赴くと千葉喜胤へ、千葉氏が少弐・龍造寺と合力しあう方針を提案。

冬尚の弟(胤頼)を千葉喜胤の養子に入れ、不和である千葉胤連の養子に鍋島清房の次男・彦法師(後の直茂)を入れるとした。

千葉氏はこれを了承、それを知った有馬勢は勝利得難しと軍を退いた。




・・・・・・・・佐賀戦国史を始める時は、千葉の自作家系図がいりますな ( ゚Д゚)y─┛~~

種の字ならホイホイ頭に入るのに、胤だとサパーリ脳に浸透しないぉ il||li _| ̄|○ il||l

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