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肥前千葉氏_9【もの言いは、西と東に捻じ込まれ?!】

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某末弟:夢を見ました・・・自分が当主になる夢を・・・兄さえいなければ・・と思ってしまったんです

良い夢なのか、悪い夢だったのか、その答えは誰にも出せない。。。。




1471年7月19日・・・謀反が終わったゴタゴタを狙って、今川義秋が一揆を企てた。

残念ながらリベンジは失敗し、今川義秋は佐賀植木で討死する。

これにより南北朝時代・肥前守護代だった駿河の名門・今川仲秋の落とし胤・肥前今川嫡流が断絶する。

11代目当主・千葉胤朝は、戦死した今川義秋の叔父・秀秋(どっかで見た名前・爆)を召し出し「持永」と改姓させ家臣とした。

結局、肥前今川家の歴史って100年ないのよね^^;知名度無いはずだ^^;;

「持永家」は後に竜造寺家に仕え、さらに鍋島家に仕えて、家名は続く(=^・ω・^=)v ブイ


大内関連ですと、応仁の乱で東軍(当主は西軍)となって家督を狙った大内教幸が敗れ、亡命先の豊前で自害しました。



千葉胤朝は肥前での領土拡大を着々と進めて行きました。

1476年には大村家親を藤津郡で破り、大村領の殆どを併合します。

で、大村氏は余力があったらしく、千葉胤朝は翌1477年2月に大村の蟻尾城を攻撃しています。

大村氏は、この時一度没落(文明年間に有馬氏からも攻撃されてた)するんですが、記録が少なくて系譜上の繋がりも解らないです(==;)

最終的には大村藩として江戸期に残るんですが、
どうも都合の悪い部分を後世、φ(.. ) イロイロ消し&改変 してるらしい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

そのため戦国初期の大村氏のことは不明な点が多く、研究者泣かせです^^;

                  
千葉家紋イメージ

1486年10月?日~胤朝の弟・胤将が蜂起!

同年10月3日~胤将は国府を襲撃し、11代目千葉胤朝が討死。享年51歳


前回の謀反から16年の歳月がたっていました。

胤将が諦めきれなかった一番の理由は「胤朝に跡継ぎの男子がいなかったから」でしょう。

兄がいなければ自分が・・・と夢見ちゃう気持ちは解ります( ̄ω ̄A;アセアセ

これは大内は何もしてません。だって11代目胤朝は大内サイドの当主だからです。

じゃ少弐が唆したのか?っていうと、それも違うみたいです。

胤将の独断で事を起こしたらしく「少弐が胤将を討伐に来る」という噂が流れると、胤将はトンズラしちゃった( ̄ω ̄A;アセアセ

ちなみに少弐はホントに怒ってました^^;

少弐にしてみれば自分の望まないタイミングで、肥前のパワーバランスが崩れては困るからです。

それほど肥前千葉家の勢力は大きかったとも言えます。

でもって、思い切った事をしたわりには後先を考えていなかったらしく、逐電した胤将は歴史からフェイドアウトしてしまい、彼の最期は誰にも解りません。

元の僧侶に戻ったか。。。自害したか・・・この顛末だと「武将らしい最期」じゃなさそうだなぁ(-ω-:)ウーン

とにかく討死した胤朝には男子がおらず、肥前千葉家断絶のピンチ~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮

が、娘が一人おりました~~~~家系図にある尼日光明胤です。

肥前への勢力拡大を目論んでた少弐は、このチャンスに早速介入。

前回の胤将・謀反の時に少弐も介入してたから、今回も介入する権利あるんだ~~と乗り込んだ^^;

1486年12月3日~少弐政資弟が千葉胤朝娘と結婚~入り婿は千葉胤資と名乗り12代目当主となった





この事態を指を咥えて眺めている大内ではない。

大内は対抗馬として亡き胤朝の甥・千葉興常を担ぎ出した


千葉興常の父・胤盛は、胤朝と家督を争ったことがあったらしい。(胤朝には男子いなかったしぃ)

だが1468年10月27日に胤盛は、突然急死する(没年齢不明)

どうも興常は父の急死を胤朝のせいと思ってたらしく、叔父である胤朝のことを激嫌ってた。

そういう訳で若年だった事もあり、興常は大内家に引き取られて養育されたんです。

くどいようだが胤朝には男子がいなかったので、万が一の時のスペアですな( ゚Д゚)y─┛~~

少弐がムコ入りで家督ゲット!って手段を用いたのも、
庶流とはいえ肥前千葉の血を引く唯一の男子・興常が、既に大内の手中にあったからなんです^^;

興常の名前は大内義興からの偏諱で、元服の時も大内義興が加冠役を務めました。

初め千葉興常は小城郡赤目城にいました。

1491年に大内の支援で千葉胤資と合戦し、牛頭城をゲッツ。

城を追われた千葉胤資は目と鼻の先にある晴気城に入ります~地図参照~( ̄ω ̄A;アセアセ

見たままですが牛頭城が東側にあるので、千葉興常が東千葉初代

これまた見たままですが晴気城が西側にあるので、千葉胤資が西千葉初代


え~~~っと牛頭城にいるしシンボルの祇園社はあるし胤朝の実甥だし~で、誤解されそうだが

( -。-)スゥーーー・・・ (o>ロ<)本家は晴気城の西千葉アアアアアアアア

亡き胤朝の娘を娶った入り婿・千葉胤資が本家当主12代目です(=^・ω・^=)v ブイ


戦国初期・・・肥前を巡る少弐と大内の争いは、肥前千葉氏を西と東に分けた。

一時的に少弐氏を再興した少弐政資は、大内からの圧迫に対抗するために肥前へと勢力を伸ばしたんです。

ぶっちゃけ本貫地の筑前から、だんだん締め出されテ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

加熱する大内と少弐の争いは、否応なしに北九州全ての国人を巻き込むのだが、それは・またの話 by^-^sio

                   
竜造寺家紋イメージ

さて、ザックリ鎌倉期からスタートした肥前千葉氏編ですが、東西に分かれたところで最終回とさせて頂きます^-^

城下は「肥前の小京都・国府」と勢力を誇り、当主は「肥前国主」とまで仰がれた肥前千葉家は、東西に分かれて主役の座から滑り落ちました。

次に肥前で綺羅星の如く頭角を現すのは、皆様御存知の竜造寺家!

次回からは章を新たに「竜造寺・黎明編」として連載します^-^

史料整理に若干かかりますので、しばし御猶予下さいませm(__)m
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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