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【如水、うち来る?富来(とみく)城】石垣原の戦い/九州関ヶ原7栞43

前回、臼杵城の太田一吉を中立と書きましたが「違うガチ西軍」と言う方もいます。

太田が甥を東軍(如水軍)に派遣したのではなく、如水の甥が臼杵城へ向かったのを史料読み間違えだ~と、黒田家子孫のHPにありました^^;

さらに太田一吉は細川家の杵築城も攻撃している・・・ともHP(黒田武士の館)は唱えています。

HPには出典元の記載が無いので、シオ検索では確認できませんでした。

いずれにせよ情報が錯綜してるみたいです。

実のところ「中川の旗を田原紹忍が盗んだ」って話も、田原が「佐賀関の戦い(中川VS太田)」で戦死した今となっては死人に口なし。

江戸期を生き残った中川家が、関ヶ原当時を言い訳するために「大名として残らなかった大友家」を都合よく利用した可能性も否定しきれません。

それほど大友家は、各方面(毛利とか伊東とか)に言われ放題だったんです。



如水が攻撃した富来城は、元々は大友家臣・富来氏の城でした。

富来氏は大友氏の鎌倉下向に随行した譜代中の譜代家臣。

ちなみに富来城は大分県国東市の海沿いにあります。

郷土史オタなら国東市・・・と聞くと「大友家分家筆頭・田原氏」を連想することでしょう。

富来氏は、大友家最大勢力だった田原氏を抑えるほどの実力がありました。

その大友内部の微妙なミリタリーバランスが崩れるのが、御多分に漏れず「耳川の戦い」

島津軍に大敗北した戦いで、他の大友家臣同様に富来氏も当主と嫡男が戦死しちゃうんです。
・゜・(PД`q。)・゜・(←実は大友家臣団ファンの管理人)

庶流が残り、富来氏は「朝鮮の役」にも出陣してます。ですがそれも主家の大友家改易でドボン・・・il||li _| ̄|○ il||l

富来氏は僅かな希望をかけて「佐賀関の戦い」に出陣し(田原紹忍と一緒だったらしい)戦死。

ツテが無くなり本当に武家としては没落・・・生き残りは国東の地に姓を替えて土着したらしい・・・と伝承されています。


天才軍師如水・イメージ画像

大友家改易後の富来城城主は、垣見家純(かきみ いえずみ)。

三成の下で「朝鮮の役」で軍目付の任務してたんで、武断派に超嫌われてました^^;

垣見は西軍として関が原に出陣してましたが、本戦には参加せず美濃・大垣城の守備に入っていました。

だから富来城には城代家老の垣見理右衛門(かきみ りえもん~主君の垣見とは同族)が残ってた。

如水は豊後進軍当初から富来城の包囲をしようとしました(海沿いの城を抑えて確実に制海権をゲッツするためと思われる)

でも細川の杵築城の救援要請があり、いったん富来城の囲みを解きました。

で、その時の富来城は抵抗してません。如水軍は大軍だから素通りする分には関わらない~ってことです。

ホッとしたのも束の間、大友軍を倒した如水軍が再び富来城を包囲したんです。

富来城は「富来浦を見下ろす崖の上に立つ要害の城」と言われていた


まともに攻めたら損害が大きくなると、如水は降伏勧告の使者を出した。

城代家老・垣見の返答は「NO!城は主君の命が無い限り明け渡すわけには参らぬ!欲しくば弓矢に訴えるがよろしかろう!~


主君の垣見家純は、石田三成の仲間という事で武断派から嫌われ、無能・凡将と評判が悪かった。
(ウィキペディアにも、ちと情けない逸話が紹介されている)

だが垣見本人の性格は篤実で、家臣にとってはニなき大事な主君。

富来城は、城代家老の垣見を中心に良くまとまっていたらしい。

いかに要害の城とはいえ、城代家老の垣見は天才如水と大軍相手に10日も粘ったんです


一方、彼らの主君・垣見家純は大垣城で「関ヶ原本戦で西軍が敗北」との知らせを受けて、豊後の富来城宛てに手紙を出した。

垣見家純・最期の手紙~西軍が敗れたので、私が守備している大垣城も何時まで保つか判りませんが、私は逃げずに最期まで守って戦います。もはや生きて逢うことないでしょう。お前達の忠勤に対し、これ以上、酬いてやることができません。だから城を東軍に明け渡して生き延びてください。いままで本当にありがとう・・・^-^。。。。


垣見家純の悲痛な手紙は富来城へは届かず、すでに海峡封鎖していた如水の検問にひっかかった。

如水は富来城へ手紙を届けるとともに再び降伏勧告。

1600年10月2日・・・主君からの開城OKの手紙を見て、城代家老垣見が降伏した


如水は、この垣見理右衛門の戦いぶりに惚れ込んだらしい「ワシに仕えぬか?」と誘った。

だが垣見理右衛門は如水の申し出を断ると出家、主君や一族の菩提を静かに弔ったそうだ。

如水が天下に野心があったか、なかったか・・・如水ファンには悩ましいところだが、いずれにせよ富来城で粘られた10日間のロスが大きかった。

10月1日!石田三成・小西行長・安国寺 恵瓊が京都で処刑


関ヶ原のゴタゴタが長引くのを嫌った徳川家康は、首謀者の処断を早々に行っていたんです。

次回、如水と連携していた加藤清正登場です。それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
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兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
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家紋画像~ロンさま
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相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
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参照先(しいまんづ雑記旧録←戦国島津女系図の別館です)
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Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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