【嗚呼、よしな川悲話】石垣原の戦い/九州関ヶ原4栞40

「石垣原(いしがきばる)の戦い」は、九州における「関が原の戦い本戦」に匹敵する。

これは単に東軍が西軍に勝ったというだけではなく、九州における豊臣政権の支配力が大きく衰退することを意味するからだ。

そして天才軍師・黒田如水は、東軍が勝ったら後に豊臣政権がどうなるか解った上で行動しているとシオは推測してます。

西軍・大友義統に攻撃を受けた杵築城(細川家の飛び地)。

城を守る松井康之(筆頭家老)と有吉立行は、東軍の如水へ援軍を要請。

如水は混成軍から母里以下3000を派兵した。

援軍到着の知らせに大友義統は杵築城の囲みを解いて、西南24k先にある立石城に入った。

松井・有吉・母里らの軍議の結果、如水本軍を待たずに攻撃し石垣原を押さえよう!という事になった。

東軍~母里率いる黒田軍3000名!有吉率いる細川軍200名!他の援軍200名の計3400!

西軍~豊後の元大名・大友義統の大友軍2000名(900という説あり

1600年9月13日、石垣原の制圧を巡って両軍が激突した!!


前回も話したが、石垣原(いしがきばる)という土地は、日露戦争における旅順・203高地か天王山のような場所。

そこを「制圧した方が勝つ」という戦略的要地でした。

当然、どちらも譲らず激しい戦いになりました。

地元有利で大友軍は激しく抵抗し、数では有利とはいえ寄せ集めの東軍(黒田軍自体が寄せ集めな上にに更に他家との連合軍)

そのため「一気に大友を踏み潰す」ということが出来ず、2陣・3陣と兵力を投入しなければならないほどの激戦でした。


黒田家紋

大友軍の方は兵力を二つに分け、右軍・左軍と軍を展開していた。

その将の一人に吉弘統幸(よしひろ むねゆき)という勇将がいました。

吉弘(名前っぽいけど名字)は、主君・大友が秀吉によって領地没収されると、一族を養うため 大友の元家臣で一大名として独立してた立花宗茂(たちばな むねしげ)に仕えていました。

(立花宗茂と吉弘は従兄弟の間柄^^)

旧主・大友が西軍として行動しようとしている情報を、地元コネでキャッチした吉弘。

彼は涙ながらに旧主を諫め、必死で止めたんです オネガイ( ̄人 ̄;)ヤメテ~~

でも御家再興のニンジンに目がくらんだ大友の決意を変えることが出来ませんでした。

(毛利輝元に幼い3男を人質にとられていた、という裏事情もありました)

吉弘は「この上は旧主と共に行動するしかない」と立花に別れを告げて、大友軍に身を投じたのです。

石垣原の決戦の日、吉弘は「もはや大友に勝ち目はない」と死を決意しました。

大友に兵の余力はありません。いまが手一杯の一張羅なんです。

だから例え目の前の黒田軍3000+他400を撃破できたとしても、その後に押し寄せる如水本軍に勝てる見込みが無い。

「同じ死ぬのなら、せめて石垣原で死に花を咲かせよう」と思い至った。

吉弘は大将で旧主である大友に、累代仕えたことの礼と永遠の暇乞いをし別れを告げました。

そして一手を率いる将でありながら、わずか20~30騎の供で最前線に出てしまいます!

ベテランの猛将・母里と有吉は、この絶好のチャンスを見逃さない!!

激しい戦闘の末、黒田二十四騎の一人・井上が躍り出て、ついに吉弘を討ち取った!!

指揮官の一人である吉弘を失った大友軍は動揺し、大きく崩れ敗北!立石城に逃げ込んだ!

大友義統:もぉダメよ!終った!切腹よ!それしかないわぁぁ!!


大騒ぎする大友義統を残った家臣が必死で宥め、抱きかかえるように麓の寺へ連れて行き出家させた。( ̄ω ̄A;アセアセ

実は黒田軍の将・母里の妻は大友義統の妹だったので、縁戚コネにスガって降伏することにしたんです。

大友の降伏を母里と如水は受け入れました。

大友義統は、如水の助命運動が効いて死罪だけは免れた。

さらに意外にシッカリ者だった大友~事前に長男を徳川家に人質に出していた「保険」が成功。

息子の代で高家(こうけ・武家典礼を司る家)として家名存続が出来ました(=^・ω・^=)v ブイ


金宗院跡にある吉弘の墓

戦死した吉弘統幸の首は罪人として石垣原で晒されていました。

吉弘家の菩提寺・金宗院の住職は不憫に思い、首を取りに石垣原まで行きました。(こっそり盗んだらしい)

帰り道に風呂敷から血がしたたり落ちるので、首を取り出し川で首を洗っていると、死んでる統幸の首が目を開き言いました。

「ああ 和尚よしな(吉名:やめなさい)」

「ぅひゃぁ!(゚ロ゚屮)屮」住職は驚き、寺に帰り手厚く供養をしました。

以来都甲川の事を「よしな川」と呼ぶようになりました。

地元に残る民話で、写真と話の提供はブログ友の東高家男様です^-^
http://blogs.yahoo.co.jp/muneshigetatibana

大友が旧臣を集めてると知った時に、如水は「東軍にしなさい」って忠告してたんですけどね・・・

東軍になっていれば2~3万石の小大名でも残れたかもです。

まぁ結果として高家で家名は残せたのだから、吉弘は全くの無駄死にでは無いでしょう。


とにかく、西か東か迷ってた九州の大名たちも、この戦いの結果を見て大きく東軍に傾き、如水軍による豊後平定の動きが加速していきました。

1600年9月15日~大友が黒田軍に降伏したこの日~関が原本戦で西軍が敗北したことを、如水は未だ知らない・・・

それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
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家紋画像~ロンさま
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相互リンク~ばんない様HPアドレス(戦国島津女系図)
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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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