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北肥戦誌【1534年】

★そして肥前にて年を越し、翌年(1534年)の4月6日に原田隆種の勢を石動村(いしなりむら)に働かせて、少弐方と争わせた。
このとき道麒は、石動但馬守を案内者として、千栗山の衆を攻め、諸所に放火し神社を悉く焼失させた。
道麒は三津山に陣を布き、5月16日に龍造寺家兼の居城・水ヶ江城を攻めさせる。
福地家盈らは持口を守って城を死守した為、大内勢は三津山本陣へ引き返した。
また、7月13日には有馬晴純の軍勢が少弐の留守を狙い、多久城を攻めるが、こちらも城番・龍造寺盛家の死守により守られる。

さて、その翌日の夕方から俄かに風が吹き出し、翌15日の朝には大雨となる。
南の海から大潮となり、風に煽られ高波となると、須古・白石・佐嘉・神埼の村々を洪水が襲い、死者は一万余に達した。
この夜、家兼はこの有り様を見て、子息・家門に対し
「この大風と大雨で、三津山の陣に居る者達は合戦の事など考えられぬだろう。ならば今夜、風雨に紛れて敵陣を夜襲し、陶を討ち取るべし」と述べた。
家門も同意し三津山陣へ夜襲を仕掛けた。
その頃、陶の陣中では、佐嘉・神埼の民家が浸水している様を遠く見ながら、龍造寺の者達が自滅すると笑いながら酒宴に興じていたのであるが、そこへ龍造寺勢300余が鬨の声を上げて押し寄せた為、矢兵具を放ったままに我先にと逃散し始めた。
龍造寺勢は敵を追い崩し千余の首級を得て勝ち鬨を上げた。

16日の朝に帰城すると、潮に流れて何やら流れて来た。
それは観世音菩薩の木像であった。
家兼は、「大敵を追い崩し、帰陣に及んで仏像を得る事、偏に子孫繁栄すべき瑞相なり」と木像を懐中にしまって帰城した。
その後、城の南に堂を建てて木像を安置させた。
この木像が後の、水ヶ江慈教院の観世音である。

8月15日 家兼、法華経万部を修読する。

先の敗戦に立腹した大内義隆は、10月初旬に自ら30,000余を率いて筑後へと渡ると、大宰府を本陣と定めて少弐へ打ち手を差し向けた。
道麒は汚名返上と先陣を申し出、嫡子・隆房(後の陶晴賢)と共に肥前国へ打ち入った。
勢福寺城の少弐親子は、味方を諸所の要害へ差し置き、大内勢を防いだが、少弐冬尚は打ち負けて、小田氏の蓮池城へと入る。
蓮池城は長い川の流れを巡らせた要害で、大内勢は俄かには攻められない。
そこで、唐津の波多隠岐守を家兼に遣わし、
「公方様より命を承り、義隆が逆徒を平らげました。少弐は我意を恣にし、国家の動乱が治まりません。
そこもとは少弐と年来の誼が御座れば、少弐を諌めて争乱を止めさせて頂きたい。
この儀、整うならば義隆の計らいにて少弐に休息処を与えるでありましょう」と述べた。

家兼も少弐が断絶するに忍びなく、少弐の老臣・千葉興常、千葉喜胤、波多下野守の3人へ、
「中国の軍兵雲霞の如し。然るに此度は千に一つの勝利も得られますまい。和融に及び居城を渡されれば、一には公儀への忠心、二には敵味方諸人の安堵、三には累代の名家を相続あり、これらの大幸を為します。然るに御辺らは少弐氏の近臣なれば、これを宜しく評議致され」と申し送った。
これは大内義隆の命を受けての発言との風聞もあったが、資元へその旨を伝え、江上・馬場・小田・横岳・龍造寺らで評定に及んだ。

資元曰く「大内と当家との怨恨は一朝一旦の事ではない。御主らが存ずる如く、大内は先祖累代の難敵・・・殊に父の仇である。幸いにも義隆は来陣した。此の上は我が屍を野首に晒すとも一戦に及び、勝敗を決する外なし。されど、また案ずるに、我が憤激の為に万人を死なすも流石に不憫である。求めに応じよう」と述べる。
而して、10月に和睦に至り、資元・冬尚は勢福寺城を大内へ渡して去った。
これを聞いた大友も大内と和融に至った。義隆は周防に帰り、陶父子は大宰府に戻った。


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