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【仁義無き戦い?】福岡藩初代藩主10栞35

「関が原の戦い」で裏も表も大活躍した長政に、

徳川家康は「どの国でも望みの場所を与えよう」と、ご機嫌~破格の待遇をした。

長政は父・如水と相談し、貿易港・博多がある筑前(ちくぜん=福岡県)を選んだ。

ちなみに、如水が「お前の左手は何をしていた」と叱責した例の有名な逸話は、大正時代から出始めたもので江戸期の記録には見当たらないそうだ。

研究者の間では「後世の創作の可能性がある」と言われている。

「な~が~ま~さぁ~やりやがったなぁ~~」


1601年~黒田長政が筑前に引越した後に、丹後宮津(現在の京都府の北)から豊前・中津城に入った細川忠興は激怒した。

中津城が未完成だったからではない。城の米蔵が空っぽだったからです。

武家の作法というか慣習というか「領地引越しの時は次の藩主の為に租税を半分残す」というものがありました。

これは強制力のある法度(法律)ではなく、どうやら武家の心得・マナーのようなものだったようです。

名門・細川様は、ちゃんと作法通り丹後宮津に租税を半分残して来ました。

ところが長政は「そんなのイチイチやってられっか~」とばかりに、全部持ち出してしまったんです。
(関ヶ原で金がかかったんだ~~~でも金無いから、、とは面子があるから言えない、忠興なら友だちだから・・・と思ったかもだが、そういうケジメに関し忠興は超厳しい男)

「力づくでも取り返せ!」激怒した忠興は、関門海峡を通過する筑前の廻米船を襲い、実力で租税を奪い返すべく行動しようとした。

近隣住人は「明日にも戦が起きるぞ」とパニックになり、その騒ぎは家康の元にまで届いた。

驚いた家康(まだ江戸幕府が開く前です)は、片桐且元と山内一豊に仲裁を命じました。

細川忠興は泣き寝入りする男ではありません。やられたら倍返しするタイプ。 

そこを何とか片桐&山内が仲裁し、長政が持ちだした米(租税)の代金を、分割払いで忠興に返済することで決着しました。

分割払いは慶長7年・1602年に完済人したのですが、細川家と黒田家の争いは終りませんでした。

黒田の領地・筑前の農民が、細川の領地・豊前へ逃亡する事件が相次いだからです


長政に対し怒りが治まっていない忠興は、逃亡した農民を黒田家に返還せず、豊前の新田開発や築城の人足などに回してしまいました^^;

筑前の農民が逃亡したのは、別に忠興の陰謀ではありません。

原因は黒田家の方にありました。


黒田家紋

農民逃亡の原因は検地による大増税でした


教科書に書いてる太閤検地~これは納税者を確定し農民の身分を定める方が目的です。

検地によって「朝鮮の役」での軍役・諸役も決められて行きました。

その割に、実は数字そのものは結構アバウトなとこが多かった^^;

長政が筑前52万石に入った時の実収も、ホントは50万石にも達していませんでした。

そこで長政は1602~1608年までにかけて、筑前の隅から隅までズズズィーっと検地を敢行。

まずは実収50万石を目指して大増税したんです。

増税による負担に中には、福岡城の築城と城下町の造成の課役もあって、筑前百姓の負担は逃亡したくなる血涙レベル!

とはいえ筑前の農民が、逃亡先に豊前を選んだのにはワケがある。

この当時の戦国大名は、隣国との間に条約を交わしています。

それは「お隣の誼みですから、互いに逃亡した罪人・農民を引き渡そうネ」って条約です。(正式名ド忘れ)

黒田家は鍋島家とは取決めをしてましたが、不仲の忠興とは取決めしてなかった(出来なかった)んです。

だから農民たちは「隣の細川領なら捕まっても黒田領に戻されずに済む」と思ったのでしょう。

それだけではありません。

忠興は豊前に入領した時に、検地(つまり増税)を行わなかった


忠興が豊前にいる時、長政が未完成だった(朝鮮の役で進捗が遅れた)中津城を改修し、さらに小倉城も築城し、さらに新田開発もしています。

けど、すぐには増税しないで前領主・・・つまり長政時代と同じ租税率で据え置きにしたんです。

筑前百姓には、大増税のない豊前細川領は天国に見えたでしょう。

もちろん築城しながらの増税無しで藩財政が足りるはずがなく、忠興はアチコチから借金してます。

関が原のあとの慶長と元和年間は、後に起きる寛永大飢饉の前兆で九州各地で飢饉が発生していました。

忠興は自領で飢饉が起きると、父・幽斎から受け継いだ茶器・・その全てを売って金に替えて食糧を買い、農民の救済に回していました。

長政を弁護すると「まず検地ありき」で「自分の欲しいだけ増税する」というやり方は、大名の引越しの激しい江戸初期には、どこでも普通にやってることでした。

1638年に「島原の乱」が起きてから、やっと各藩も「まず増税」って方法を自粛するようになるんです。

増税しないで辛抱し続けた忠興は、検地帳を作り直し開発した新田分を含めて祖税率を改めます。

それは、大坂の陣も終り家康も死んで、さらに11年後の1626年~息子忠利に代替わりしてからです。
(ちなみに3代将軍家光が将軍になる年)

公共事業(新田開発・街道などインフラ整備)を推し進め、民力が回復するまで増税しない。

現代の政治家でも充分通じるバランス感覚を、戦国時代の細川忠興が身に着けていたのは驚きです。


おっとっと~いつまでも忠興を褒めてたら、長政に怒られる(*´艸`)クスッ

とにかく逃亡した農民を返還しない忠興に激怒した長政は、豊前との国境沿いに筑前六端城(ちくぜんろくはじろ)と呼ばれる支城を作ります。

(※筑前六端城⇒北から若松城、黒崎城、鷹取城、大隈城(益富城)、小石原城、左右良城)

(※城主には黒田二十四騎の面々が入ります。)

六端城は、1601~1609の間に造るんだけど、見事に検地の時期と被ってるんですよね^^;;

たぶん農民の逃亡を水際で防ぐ目的もあったと思います。

緊張状態の続く筑前と豊前で更に大きな事件が起きる・・・黒田家臣・後藤又兵衛の出奔だ!!・・・それは・またの話 by^-^sio

ブログ用画像~南洲さま
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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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