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【再婚】福岡藩初代藩主7栞32

無嗣断絶(むしだんぜつ)~跡取りがいなくて、家が堪える事。
子供がいない時、前もって養子を届け出ないまま当主が死亡すると、これを理由に大名が潰される。
それは戦国時代も江戸時代も変わらない。
ぶっちぎりの名家や将軍連枝の家などだけが、超特例として当主不在のまま家名が存続する事がある。


如水自身には兄弟がいるが、息子は長政と次男の二人だけだった。
次男は「慶長の役(1597年)」に朝鮮へ行く途中、船が嵐にあい水死したそうだ。
如水は幽閉された時の後遺症で下肢に障害が残り、体調もイマイチな状態が続き(一説として梅毒説アリ)、またキリシタンでもあったので側室はおらず、これ以上の子作りは望めなかった^^;
黒田家の男子は実質、長政一人だったんです。
人物・黒田如水

長政が結婚したのは、天正12年(1584年)16歳の時。
太閤記に必ず出てくる、蜂須賀子六(はちすか ころく)の娘と結婚した。
子六の娘は結婚の時に秀吉の養女になっている。
秀吉の娘(養女)が妻なので、黒田家は(一応)豊臣政権の一門に入った。
だが天下が豊臣に定まってみれば、如水には中津18万石しか与えられなかった。
秀吉が如水に大きな領地を与えるのを恐れた・・いわば「名誉ある冷遇」と世間では、いい話っぽくウワサする。
だが当の黒田家・・・特に息子の長政にしてみれば、これほど割りに合わない話はない。
必死で働き、なおかつ秀吉の養女と結婚してるのに、これ以上の出世の見込みが無いからだ。
「朝鮮の役(1592~1598)」で「頑張るぞ!」と思ったら、親父も自分も処罰される(なんてこったい!)
不仲の石田三成が仕切る豊臣政権では、黒田家のお先真っ暗。
長政が徳川家康に接近したのには、三成に対する個人的な感情の他に、黒田家の生き残りも懸かっていた。


徳川家康は自分の派閥作りのために、せっせと政略結婚に励んでいる。よっしゃ~この流れにワシも乗るぞ!
と、長政が思うのは自然な流れだが、長政には小六の娘との間に女子一人しか子供がいなかった。
突撃バカの長政に対し、黒田家老たちや後藤又兵衛は「主君らしく本陣に大人しくいろ!」と諫め続けた。
それは嫡男がいない長政に万が一があったら、無嗣断絶で取り潰しの危機があり、涙目の切実なものだったんです。

正室は秀吉の養女なので、側室は遠慮しないければならない。
(しかも女子が産まれてるから夫婦には可能性がある⇒⇒余計に側室を置きづらい)
「娘にムコ養子すれば?」と思われるでしょうが、関が原の時に長政は33歳。
この先、男子誕生は充分ありえる若さなので、他家から跡取りを入れるには早すぎる。
たぶん悩みに悩んで一大決意!秀吉の養女であり、蜂須賀家の姫様と離婚!
三成挙兵の直前!1600年6月6日に徳川家康の養女・栄姫と再婚!!
666!ぜんぜん関係ないが、長政の洗礼名はダミアンだ!(爆
離婚→再婚しているから、長政は完全にキリシタンを棄教したことの証明にもなります。

家康の養女となった栄夫人は、家康の姪で保科正直の娘です。
黒田家譜では栄姫の事を「顔良し、スタイル良し、性格良し!長政を支えた賢夫人!」と大絶賛。
実際、長政死後に起きた御家騒動の時には、病を押して尽力していました。
とにかく栄夫人が、長政との間にポコポコ3人も男子を産んでくれたのです。
後継者問題が密かな悩みだった黒田家では、存在自体が有りがたいでしょう^^;;
一方、離縁された蜂須賀のお姫様のその後は、シオ検索では調べ切れませんでした。
家康の養女(栄姫)と結婚するから、秀吉の養女と離婚って、かなり失礼な話です。
でも蜂須賀家の方も、家康の養女(氏姫)と政略結婚している、いわば同じ穴のムジナ。
妻を通して縁戚関係なことに変化はない。
調べた限りでは、蜂須賀家から黒田家へ、正面きってのクレームは無かったようです。
(男子を産んで無い、という負い目もある)

離縁が原因で両家不仲説もあります。
ですが、慶長9年(1604年)に蜂須賀家臣の八木家が、長政に請われて黒田家臣となっているので、表面上は普通通りに社交していたのかもしれません。
家紋・黒田
5月に上杉征伐の動員命令が出ているので、長政の結婚した6月は、いつ三成が挙兵しても不思議ではないギリギリの情勢でした。
この時期に嫡男がいない長政が家康の養女と再婚したのは、自分に万が一があった時を真剣に考えたのだと思います。
自分が戦死した時、残る未亡人が「秀吉の養女」では話にならない。
「家康の養女」を正妻にして、もし未亡人になったら、その未亡人に親族からお婿さん、または養子を迎える。
・・・までを想定したんじゃないか~ってのがシオ私見なんです^^

この先、父の如水に子供が望めないという理由には、体調だけでありません。
どうやら如水は、表面上は棄教したように振舞っていたけれど、どうも内面での信仰心は捨ててなかったらしい。
側室(愛人)作って、子作りに励む可能性はゼロ^^;
となれば(長政戦死の場合)無嗣断絶・取り潰しのピンチを避けるには、上記の方法しかないでしょう。
(もっと最悪の手段は徳川家から養子を入れる)
三成と家康・・・どちらが勝っても単なる派閥争いで、豊臣政権が継続するのなら「秀吉の養女」が妻のままの方が都合が良いはずです。
でも政権交代なら、妻は「徳川の養女」でなければ黒田の家の生き残りは難しい。
父が有名すぎて影が薄い長政だけれど、この戦いが三成派と家康派の派閥争いではなく、豊臣から徳川への政権交代になることに、途中から気付いたのではないでしょうか?
でなければ、秀吉養女と離婚して徳川養女と再婚など、露骨でゴマすりも甚だしい事を強行する理由がみつからない。
とにかく オーメン・・じゃなかった6月6日に婚儀をあげたばかりの初々しい花嫁・栄姫様は、如水夫人とともに黒田家の人質として豊臣政権の首都・大坂にいた。

慶長5年・1600年7月17日!ついに石田三成が挙兵する。
大坂城下は 戒厳令~~~新婚早々の栄姫も波乱万丈だ!それは・またの話 by^-^sio

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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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