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【養子はツライぉ!】福岡藩初代藩主編6栞歴31

藩組織が完成された江戸時代になると、他家から養子を迎えても大きな動揺は起きない。
(家名・藩存続が最優先)

だが、まだ過渡期の戦国時代は、家(組織)の他に「主君」という血肉の通った忠誠の対象を欲した。

当主に子供がいなければ、男系・女系のいずれであっても親族から養子を迎え、血筋を繋いでいくのだ。

係累の少ない豊臣家では、政権樹立当初から後継者問題が根底にある。

そして、それは黒田家の問題でもあったのだ。

毛利家の分家・小早川家に、秀吉の甥・秀秋が養子として入るのは、長政の父・如水が斡旋したと言われている。

実は、豊臣政権初期五大老の一人・小早川隆景は「如水の親友」だった。

ちなみに小早川隆景は、佐賀の鍋島直茂とも親友で、その繋がりで黒田家と鍋島家も親しい。

(ただし、小早川隆景は「軍師としての黒田如水」への警戒心はキッチリあった^^;)

文禄3年(1594年)に、秀秋が小早川家の養子となり家督を継ぎました。

当時まだ13歳の甥がポカしないか心配で、秀吉は家老を二人(稲葉&平岡)付ける(付家老と言います)

その内の一人・平岡が如水の姪、つまり長政の従姉妹の夫だった。

付家老に黒田家の縁戚が付くのだから、やはり養子問題には如水が一枚噛んでいたかもしれない。

とにかく如水は、小早川家の後継問題に突っ込んで話せるほど、隆景と親しかったのは確かです。



戦国のフェアリー?黒田如水

隆景には実子はおらず、毛利本家から養子(元就の庶子)を迎えていた。

本家から来た養子は、血統だけでなく大変に優秀で、家中から慕われていた。

なのに、それを押しのけて、天下人・秀吉の権力で秀秋が養子に入ったのだ。

文字通り、どこの馬の骨ともしれない秀吉の甥を「主君」と呼ばねばならない「不幸」に、家中は慟哭した


「不幸」は「不幸」を呼ぶのか,隆景も間もなく病で死んでしまう。

秀秋を見る小早川家臣たちの目は、刺すように冷たかった・・・・


かつては「関白候補」だった秀秋は、大坂城で贅沢・ワガママに育っており、環境の変化についていけない。
(正規の武家の出自ないからか天性か、秀吉の子育ては単なる猫可愛がりで躾下手) 

さらに秀秋には、友達や仲間がいなかった。

三成にですら「生死を共に」と誓う大谷のような真友がいるのに、秀秋は武断派の誰からも声がかからずポツーン(ω・`))

秀吉が(豊臣の権威付けで)秀秋の官位をガンガン高くしたので、同世代の大名の子弟と遊ぶことがない。(席次が違いすぎて近寄りがたい)

さらに出世目当ての取り巻きに囲まれている秀秋の側には、心ある大名は近寄ったりしない。

実子・秀頼が生まれると、取り巻きはアッという間にいなくなり、秀秋は一人ぼっち。

さらに養父の隆景が死んだ時に、小早川家臣の主だったものは毛利家へと帰参してしまう。
(隆景の遺臣引き受けで、毛利家は少なからず混乱する)

秀秋が頼れるのは、北政所(秀吉の正妻)と、秀吉が付けた家老(平岡&稲葉)だけだった。




後に大名となった稲葉家の記録によると、1600年5月の会津征伐の時点で「小早川は家康に味方します」って伝えていたそうだ。

時期がホントかどうかは別にして、小早川家は両家老たちの決定で「徳川側として」ヤル気マンマンで戦の準備をしていた。

平岡&稲葉「なのに、なんで三成に「味方する」って勝手に返事しちゃうんですか!!

秀秋「だって~筑前なんて田舎(失礼)やだ!畿内に戻りたい~三成が秀頼チャン成人まで関白にしてくれるって~~三成に味方するんだぉ~当主の決定だぉ~

平岡&稲葉「わぁぁ~そんな話を真に受けるから、おバカキャラにされるんです!!

(天●人でのキャストはイメージピッタリだったかも・爆)
以下、平岡と稲葉の説教なんでスルー可

「秀頼君成人まで政務を執るのは、亡き太閤の遺言で「五大老・五奉行・十人衆と決まってます!関白なんてなれるわけないでしょ~~」
「慶長の役(1597年)で秀秋様が軍令違反をして処分されたのを、徳川家康様に不問にしてもらった御恩を忘れたんですか?!越前に飛ばされるとこを助けてもらったじゃないですか!」
「友達いないから相談する人いない~~~って、北政所様に泣きついて、徳川様を紹介してもらったんですよ!」
「小早川は毛利の分家なんだから、本来は毛利本家に取次を頼まなきゃ~なのに、本家の頭越しに徳川様に取り次いでもらってるんだから、そのまま徳川様の組下に入るのが筋ってもんです!!」

(o>ロ<)<ガミガミ!ケンケン!バゥバゥ!  とまぁ、こんな感じで秀秋はガッツリ叱られ、とにかく「適当な所で西軍を裏切ろう」という事になった。

平岡は親戚コネで黒田家に接触、その時に同僚の稲葉も誘った。

そして西軍を裏切る証として両家老は、それぞれ人質を出した。

さらに関が原本戦当日は、徳川家から奥平、黒田家から大久保が目付として派遣され、小早川家を監視していたんです。

つまり小早川秀秋は「東軍」を裏切れる状況じゃなかった


******秀秋が三成との約束通り、東軍に攻めかかるためのハードルは最低でも2つ******

1)人質に出してる家老の身内を見捨てる。
2)目の前の奥平(徳川家臣)大久保(黒田家臣)を血祭り・・・もしくは拘束する。

*****************************************************************************

実は小早川家には、平岡・稲葉の両名の他に家老が2名いるのだが、後年に一人は出奔、一人(杉原)は秀秋が手討ちにしているので、関ヶ原当時から良好な関係ではなかった。

13歳から6年間・・・自分の側にいてくれた平岡と稲葉の両家老以外、秀秋には家中で頼れる人がいないんです。

上記のハードルをクリアするのは到底無理だったでしょう。



小早川の精強な15000の兵力が何としても欲しい三成は、秀秋に影響力を持つ二人の家老にも誘いをかけていた。

恩賞として近江あたりに、それぞれ10万石+当座の支度金として黄金300枚づつ渡してた。

予想より多く集まった西軍と、本戦当日予想以上に奮戦する西軍に、やっぱ普通に迷ったらしい^^;;

なかなか西軍を攻撃しない小早川に「イラっ」とした大久保(黒田家臣)が平岡に叫んだ。

大久保(黒田家臣)「なぜ西軍に打ち掛けない??我が主君・長政を欺いたのか?!八幡菩薩に起請した上は疾く兵を進められよ!!


平岡は「い・・いまタイミング計ってるの!ちゃんとヤるから見てないさい!」と返事したそうですwww

平岡さん~カッコつけてるけど迷ってただけじゃね?(爆)

とにかく、大久保の声で(やっと)踏ん切りがついたらしい・・・大谷隊への攻撃命令が出たんです。



さて、盛りあがったところで冒頭にもあげた後継問題に話を戻そう。

実は黒田家でも真剣な悩みでした。

突撃バカで、どこの戦場でも最前線で戦う長政(当主)です。

いつなんどき、昇天☆彡になるか分らないのに、なんと黒田家には未だ嫡男がいなかったぁぁ。

次回「戦国の地味婚」それは・またの話 by^-^sio

記事協力
ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
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相互リンク~ばんない様HPアドレス
(戦国島津女系図)
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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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