【取次】福岡藩初代藩主編5栞歴30

愛しの吉川広家と益田元祥に捧ぐ~(* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪

福岡・黒田藩は、幕末まで藩が存続した勝ち組のイメージだが、家康は・・というと終生、長政を警戒し続けた。

大坂・冬の陣(1614年)~福島正則と同様に江戸留守。代わりに長政の息子・忠之が出陣。

同じく夏の陣(1615年)~従軍したものの、将軍・秀忠の配下で幕府の監視下にあった。

それどころか「大坂の陣」の後、本国・福岡へ帰る事を許されず、そのまま5年間も江戸在府を命じられる。

「関が原の戦い」で大きな手柄を立てる長政だが、その功績ゆえに家康に恐れられたのです。

ブログ炎上のように、あちこちの大名と揉めまくる石田三成。

彼は、毛利家の分家・吉川家(武断派の一人)ともガッツリ揉めていた( ̄ω ̄A;アセアセ

それも当主の広家だけではない。

ご丁寧にも、吉川家の家老・益田元祥とまでガチで揉めていた ( ゚д゚)ンマッ!!

吉川軍が「関ヶ原の戦い」で西軍を裏切ることができたのは、吉川家老・益田が、全面的に賛成(てか裏切りの話は益田から切り出した件~~)した「吉川家の総意」だったからです。

だから西軍から怪しまれつつも、ギリギリまで裏切りを隠し通すことを可能にしました。

裏切りは吉川の総意!だが一つ問題がある。

西国大名の広家には、東海道~関東がフィールドワークの徳川家中に親しいコネが無い!!(_´Д`)アイーン


「直接言えば良いんじゃね?」って思う方「とんでもありません!!」

武家や大名において「取次=仲介してくれる人」無しで、やりとりすることは平時でも、まず無いです。

カオスでフリーダムの戦国時代~いつ誰が寝返るか解らない時代だからこそ「取次」は絶対不可欠でした。

「取次=仲介人」は、それぞれの主張の生証人でもあるからです。

重要な役割を持つ「取次」に選ばれることは、その武将にとって大変な名誉でもありました^ー^

(交渉がうまくいけば、それなりの礼金も入る)

吉川広家は、徳川家への「取次」に黒田長政を選びます。

長政が断ることは200%ありません。 

「取次」役は長政にとって名誉なだけでなく、吉川を裏切らせることは長政の手柄になるから・・です。



黒田家紋

毛利家の本領安堵~この家康の約束を無邪気に信じるほど、吉川広家は愚かではない

吉川広家が考えていたのは「関が原の戦い」の後に来る戦後処理の方です


毛利輝元が西軍の総大将を引き受けた時点で、毛利家が無傷ではいられない事は百も万も承知の上。

戦後、その傷をいかに軽くするか、1カ国でも多く毛利家の領地を残したい!

「本領安堵の約束」は、あくまで交渉のカードの一つにする予定だったはずです。

もし、吉川が黒田長政の「取次」なしに、裏切りの交渉を直接、徳川としたらどうなったと思います?

直接交渉の場合の想定問答~

徳川家臣:あ・毛利は取り潰しですよ~~「総大将の毛利本軍が不戦しますっ」て、どーみてもワナだと思って殿に知らせてなかったの~~~ワシが腹切るからして勘弁ね~

吉川広家:え~~~伝えてた事すら「知らぬ存ぜぬ!?」ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!


ってなるだろうなぁ^^;

ちなみに、この手の自己犠牲的忠義は、にわか出世・急造大名の家臣においては滅多に出てきません。

やはり累代続く譜代家臣を抱えた「武門の家」なればこそなんです。

吉川広家は、万が一の用心として長政を通じて ( -。-)スゥーーー・・・ (o>ロ<)<毛利家は不戦!不戦!!HUSENN~~~と、家康の耳の穴を,よぉ~く,かっぽじって伝えてもらったんです。

吉川家単独の裏切りなら、むしろ直接の方がアピールするだろう。だが、事は毛利本家の存続がかかっている。

家康が「相手の名誉を潰す事が出来ない・大名の取次」が、保険として必要だった


「関が原の戦い」の段階で家康は、あくまで豊臣政権の五大老筆頭の資格で戦争し、戦後処理も行っています。

急速に勢力を拡大しつつも、まだ家康は微妙なミリタリーバランスの上にいました。

つまり、家康は「毛利家を潰すためにウソを言え」と自分の家臣には命令できる

だが、自分の家臣ではない大名の黒田長政には「長政自身のメンツを潰して陰謀に加担してくれ」とは命令できないんです




徳川家紋

それを言ったら御仕舞よ~~「豊臣家のため」って、東軍集めた苦労が水の泡~~~野心バレバレです^^b

吉川広家は、事が露見し交渉が失敗したら、全ての責任をとって腹を切るつもりでした。

家老・益田とも、その覚悟を確認し合い、互いに誓紙を認めています。

誓紙を交わしたのが黒田長政に接触する前で、慶長5年(1600年)の7月15日!三成挙兵の僅か2日前の事です。

「毛利の内情」も「吉川の立場」も全て胸中に飲み込んだ上で、西軍が負けた後も毛利家存続のために最後まで取次してくれる人物。

それは十数年来の親友・如水の息子、黒田長政を置いて他にはいない。

義兄弟になるほど親しくとも「取次」は如水じゃダメ!

なぜなら如水は隠居=私人だからです。 

平時ならいざしらず、戦時下での「取次」は公人である現役当主でなければならない。

でなければ「あれは隠居ジジィの世迷言だ」って後日スルーされる可能性がある。


「取次」である長政の面目・メンツを考慮に入れなければならない家康は、様々な交渉の末、毛利を周防・長府二カ国に減らすことで妥協します。

長政は「豊臣恩顧の友人」と距離を置き、幕府に忠義を尽くしました。

江戸に置く人質だって、長政の奥方は当然、子供も・男子3人を全て出してます。

それでも家康は長政を警戒し続けました。

見るからに知恵の塊のような父の如水より、パッと見、鈍そうで戦バカと思っていた長政の意外な交渉能力の高さの方を恐れたんです。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_3214393_2?1335013318

毛利本軍の動きを止めたのは、吉川の裏切りだけでなく、毛利の家老たちも複数名、仲間にしています。

そのうちの一人、熊谷はキリシタンでしたが、その洗礼には長政の父・如水の勧めがあり日頃から親しかった。

毛利本家の家老たちにも、黒田親子の太い人脈があったのです。

本戦当日に、毛利本軍が無理でも、安国寺恵瓊までが動かないことに「ヘタレ」と揶揄する人がいますが、そうではありません。

恵瓊は動きたくとも動けなかったんです。

僧侶である恵瓊は自前の兵力が少なく、毛利家から援軍を受けてました。

その借りた兵というのが、吉川軍からで、しかも益田が派遣されてたんですよ^^;アチャー

***関が原の戦い本戦の日****

長政の元へ、徳川の使者が「毛利・不戦」は間違いないか、と確認に来ました。

長政は「ワシが知るか!後は弓矢が決めることだ!」と叫んで使者を追い返します。

使者の報告を聞いた家康は「長政の云う通りだ」と、己の焦りを苦笑したそうです。

毛利と吉川における事前交渉は全てやり尽くした・・・後の勝敗は時の運なのだから・・・

さて長政の本戦前の活躍は続きます。それは・またの話 by^-^sio

記事協力
ブログ用画像~南洲さま
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann
兜・人物画像~橘朝臣幸麿さま
http://blogs.yahoo.co.jp/cfmjs676
家紋画像~ロンさま
http://blogs.yahoo.co.jp/kabiningen

相互リンク
ばんない様HPアドレス
(戦国島津女系図)
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com
(b様ぶらんど。) 
http://bsbrand.gooside.com
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テーマ : 歴史
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時乃★栞

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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