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北肥戦誌(1528~1532年)

★少弐資元は永正の頃に大内の為に藤津の山中に蟄居していた。従うのは宗氏茂のみ。

然るに資元は、管領・細川高国を頼んで将軍家へ訴え、
大永8年(1528)の夏に息子の松法師丸を元服させ、興経(後に時尚、更に冬尚と改名)と名乗らせ太宰少弐として屋形号を申し給わると、勢福寺城へ入れて馬場・江上を後見とした。

資元は上松浦へ旗を進め、獅子・日割の両城の他、諸所の松浦党を皆切り従えると、累代の地・大宰府へ討ち入らんと先ず西筑前へ出陣する。
これを知った大内介義興は急ぎ将軍・義晴へ訴え、少弐父子を退治しようとしたが許されなかった。

そして義興は病に伏して、享禄元年(1528)12月20日卒去した。

★その跡を継いだ周防介義隆は頻りに少弐父子退治を将軍家へ訴え続け、
享禄3年(1530)に許しが出るとすぐさま筑前守護代・杉興連へ下知し筑前の兵を集めた。
西筑前にあった資元はこれを聞くと勢福寺城へ戻った。
4月下旬、大内勢が東の基肄郡、養父郡、三根郡へ討ち入れば、少弐方の筑紫尚門・朝日頼貫・横岳資貞を始め東肥前の者達は悉く城を開いて降参する。
浪人していた千葉胤勝も大内方に馳せ参じた。

これを聞いた少弐父子は、ならば半途に討ち出て戦うべきと軍兵を集め、龍造寺家兼・蓮池政光・直鳥家清、他に馬場頼周・江上元種・宗秀恒・出雲頼通・姉川惟安・本告頼景・執行兼貞らと佐嘉郡・神埼郡の軍兵が参陣した。

8月15日、大内方は野路宿に打ち出す。交戦すぐに大内の先陣は打ち負け、朝日左近が討たれる。大内二陣と戦いの最中、龍造寺方の鍋島勢は手勢を3つに分け、田手畷の南方に廻って、大内勢に打ち掛かる時分を見定める。
大内方の筑紫・横岳・千葉の手の者、一戦に利を得、少弐を追い立て野路宿の西の畷に至る。
これを見て鍋島勢の中にも野田清孝の赤熊武者2-300人(100騎)が南の方より横合いに大内勢に討って掛かる。
大内勢打ち負けて、頼みの横岳・筑紫が討たれ、千葉方の内にも討ち死にし大内勢は悉く敗北、首級は800余に及んだ。

少弐は龍造寺の軍功を賞し、龍造寺家兼も鍋島を賞し、清久の次男・清房に家重の嫡女を娶わせ、中佐嘉の本庄80町を引き出物とした。(田手畷の戦い)

★享禄4年(1531)、豊後の御屋形・大友義鑑が、筑後国・星野親忠の妙見城を三年に渡り攻囲していたが落城せず、挙句に菊池義国が星野に同心し、中国に渡り大内義隆に加勢を請うた。
義隆は杉興連に急ぎ星野に加勢する様に命じる。興連は早速、筑後へ軍勢を差し向ける。

その頃、少弐資元は多久の城に居たが、これを聞き及び、自ら筑後へ発向し大友に与力せんとする。
資元は3月14日に多久を発って、上筑前に入らんとした折に龍造寺家兼、高木右京大夫、松浦の相知・広瀬らが馳せ加わり、3,000騎に達した軍勢は筑前の岩門に着陣、小田部・重松・曲淵らも加わり多勢と成ると、閏4月に岩門を発って三笠郡を打ち通り、上筑後の生葉に着陣した。
資元は大友勢の陣所で義鑑と対面、敵征伐について評定する。
帝都に注進し、管領・細川高国、幕府引付方・大館晴光に、星野以下の逆徒追罰を上意として賜れるよう将軍家に訴えた結果、御行書を賜り、隣国に喧伝した上で星野を攻囲した。

★ 享禄5年(1532年)に入ると、大友・少弐・千葉の3家が合同して、杉興連の大宰府岩屋城を攻める。
興連は危難に陥り、周防国の義隆に加勢を頼む。
驚いた義隆は、周防・長門の軍勢を陶興房(道麒入道)に率いらせ筑後国へ差遣する。
道麒が大挙筑前に向かうと聞いた連合軍は一兵残らず退散、道麒は一戦も行わず大宰府に入った。

道麒勢は興連勢と共に少弐勢と多々良浜にて戦うと、少弐勢は敗色が見え立花城へ引き籠る。
興連の子・杉隆連は少弐を追いつつ、博多・筥崎に陣を布く。
これに伴い、高祖の原田隆種、青山の留守氏、鏡の草野氏ら近隣の多数の武士が悉く隆連の陣に馳せ来る。
大内勢は二手に分かれ、博多を発って那須郡に入ると、粥田庄の秋月を打ち通る。
だが、少弐勢から宗・横岳・馬場・出雲・筑紫以下が、道麒勢が通るのを待ち受け打ち掛かった。
道麒は不意を突かれ、仁保将監以下600余人が討ち死に、敗兵は慌てて豊後へ退路を取り、玖珠郡に至って息を継いだ。道麒らは星野を援ける事が滞り、この年はそのまま無為に帰した。
大友義鑑は豊後に帰ったものの、少弐への合力の為にと、臼杵三郎右衛門と真光寺の両将を筑前に残した。
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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Re: No title

あ^^

こっちへの返信を違うとことにしちゃった^^;
FC2の方が不慣れですいません^^;

No title

白石鍋島家の家臣深堀を追い求め、先日神埼崎村へ行ってきました。最初は長崎の深堀鍋島家の所領あたりを散策していたのですが、神崎一帯が本拠地のようです。崎村真福寺で、同じ家紋のお墓を発見しましたが、そのおうちの方に聞いても先祖のことはよくわからないけど、山伏ではないかと。

深堀氏は鎌倉幕府の御家人で、地頭だったようです。
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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