薩州家_義虎と息子たち(データベース)

永禄年間
6年、上洛し義輝公に御目見えし諱を拝領し義俊と改名。
8年3月20日、長島領主・天草越前守を攻め殺し、長島を押領する。
10年11月23日、貴久公父子の菱刈御退治の際に馬越城を攻め落とした。その夜、横川城が自ら落ち、
24日の夜に本城・湯尾・曽木・市山・青木・山野・羽月・平泉の8城は悉く城を棄て、大口城のみに籠った。
翌24日に番兵を本城・曽木・湯尾・市山に差し送り籠らせ、山野・羽月・平泉には義虎の勢を籠らせるよう仰せがあり、これに出水の人数を入れた。
11年6月18日、阿久根東郷と合戦し味方63人が戦死する。
12年8月18日、阿久根深迫村にて東郷と合戦、義虎方・村尾安房守重利が弓にて東郷の家老・白浜上総介重陣の股に矢を射当て、馳せて首を取らんとしたが重陣は尚も戦い、所々手負いとなるも遂にその首を討ち取った。
このとき東郷方の者共83人を討ち取る。
同年9月10日、菱刈は降参し、城ヶ江地頭を仰せ付けられるにつき、山野城を義虎へ拝領するよう仰せつけられた。
元亀年間
元年1月5日、東郷大和守重尚ならびに入来院石見守重副が、押領していた地を進上し降参したため、居城は返してそれ以外は召し上げた。
百次・平佐・隅ノ城・宮里・天辰・碇山・高江は入来院より進上、中郷・高城・水引・湯田・西方を東郷より進上。
よって高城・水引・湯田・西方・京泊を義虎が拝領した。
天正年間
4年8月、義久公は日州高原へ御出馬、義虎も罷り立ち19日より城攻め、22日に降参、城主・伊東勘解由は城兵を召し連れ退去。
同年9月9日、太守公が御凱陣。

6年10月、豊後の大友殿6万余の大軍にて日州へ攻め入る。
同25日、義久公日州表へ御発向。
出水は肥後の境目であるから、肥後口の固めとして参陣しなかった。
然る処、11月12日に新納院高城の下にて合戦に及び、大友大敗してこれを耳川まで追い打ちして大勝利。
同28日、義久公は鹿児島へ御帰陣される。
この戦いで降参した筑後国住人・星野長門守ならびに尾山法印を薩摩へ召し伴わせており、これを義虎へ差し送って来た。その為に奔走し、船にて筑後国へ差し送った。

同年12月(一説には8年春とも)、肥後国熊本の城主・城越前守親政が大友家に背き、飽田・詫摩・川尻を押領する。
宗麟は人数を遣わして征伐する。
城親政は商人を通じて薩州へ御味方すると義久公へ申し入れたが、薩摩口の事ではなく、肥後の奥の事であるから往還もならず、加勢も人数を出せないため、鎌田尾張入道寛栖に足軽を扶助して差し送ると決した。
義虎にはその準備が命じられ、義虎は自らの婿の親である志岐兵部を味方につけ、更に栖本・上津浦・大矢野・天草と五人衆を味方につけて出水に呼び、以後は薩摩の騎下に入るとの誓紙を書かせた上で、隈本へ差し渡らせるよう命じると、鎌田寛栖に田尻荒兵衛を差し添え足軽300人を召した勢を熊本へ差し越した際に出水から警固の船を出して彼の地へ到着させた。
すると、宇土の伯耆(名和)鑑高も味方に参じた。

9年8月上旬、相良方七浦へ発向するよう達しがあり、境目を領する義虎は先ず陣場を確認するよう申し付けられたので、先陣として横川平に陣を取った。
翌日、義虎一家の出羽守実忠ならびに切通左馬允が足軽を召し連れて水俣城の麓に差し掛かった処、城中から敵が出てきて合戦に及ぶ。味方は討ち負け退いたが、前川の渡瀬にて実忠と左馬允は戦死した。
同17日、薩州の先陣が葦北に乱入、
同18日、義久公が大口から小川内へ御発向。
翌19日水俣城を取り囲む。義虎は勝泉岡というところに陣を布いた(出水陣ともいう)。
義久公は初めに八景ヶ尾に御成りし御座、その後に出水陣へ移られた。都合25,000人なり。
その勢は間の垣を結い廻し、昼夜間隙なく城へ攻め掛かった。
この城は深水・犬童・蓑田・東ら700余人にて籠城なり
(相良側の記録では1,000人で籠城、降伏時に700余人だったような・・・)。
数日の防戦に弱り城も危うくなると、相良義陽は後詰の為に佐敷まで出向いたが、殊の外大軍であったため力及ばず、子息二人を人質として葦北七浦を進上して降伏し、城兵を八代へ差し送った。
義久公は佐敷へ陣替えされ、
26日義陽は佐敷へ罷り出て御目見え、彼の表(領地?)を残らず平定したためその後に御帰陣された。

10年冬、肥後国八代に在陣し、
翌11年1月12日に八代より出水へ帰陣する。

14年夏、筑紫広門の征伐の為、
義久公6月13日に御出馬にて、
7月2日八代へ御着きにて御滞留。
筑紫へは図書頭忠長・伊集院忠棟らを差し向け、義虎は出水衆を筑紫へ差し遣わし、自身は太守公の御供にて八代に罷り在る。
7月6日、筑後の鷹取城を攻め落とし日当山城は自ら落ちた。
同10日に広門降参、同27日筑前国岩屋城を攻め落とし宝満下城、
9月20日に諸軍八代に帰陣。
但し、義虎は天正13年に死去している為、忠辰の代の事ではないか。

知行高31,905石。9城。村36。居城:出水 野田城 高尾野城 阿久根城 長島 高城 水引 網津 山野
天正13年7月25日に卒去する。享年42。法名「大通玄広庵主」。義虎老中:市来肥前守・古垣大炊助。

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●和泉太郎忠辰(一作・忠永)
実久の孫で薩摩守義虎の子なり。永禄9年生まれ。或いは天文22年生まれともあり。
祖父以来、出水郡及び高城(たき)・水引・山野らを領する。禄高は31,900石余。

天正15年4月、太閤秀吉公自ら6万の勢を率いて征西し、肥後佐敷より船を発して出水に入る。
忠辰は大いに恐怖し、一矢をも発せずに出でて降る。
太閤はすぐに忠辰を郷導とし、また船を発して川内に着陣する(4月25日)。
更に進軍して猫嶽に陣を布き、また泰平寺に陣を布く。
高城・水引・高江・隈之城の諸城は相次いで降る。独り平佐城主・桂忠のみは堅守して降らず。
5月、龍伯公が太閤と和睦すると、太閤は兵を退いて帰る。
太閤は忠辰が早急に降って郷導と成ったのを賞して、朱印を下賜して昵懇となる。
これより忠辰は、島津姓を避けて和泉を氏としたという。
文禄元年、朝鮮の役では、義弘公に属して渡海せよとの命が下ったが、忠辰は釜山浦に至って病と称して進まず。
同2年5月1日、太閤はこれを聞いて大いに怒り、忠辰を小西行長預かりとして、その領地を収しめた。
同8月27日、忠辰は病にて朝鮮の加徳島にて没した。ここに至って薩州家は滅亡する
(公儀断絶の事に候えば、重く見て右一筋(一族)を御取り立て成るまじき由が龍伯公御譜に見える)。享年28。
但し『知譜秘略』に41歳にて死去とあり(案ずるに天文22年誕生とあれば文禄2年は41歳なり。永禄9年なれば28歳なり)。

●島津 忠隣(しまづ ただちか)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。
島津義虎の次男であった忠隣は、天正12年(1584年)、男子のいなかった島津歳久の養嗣子となり、歳久の長女と結婚した。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐において島津氏は一方的な防戦となり、重要な戦略拠点である日向国の根白坂(現・宮崎県木城町)を宮部継潤に占拠されてしまう。
忠隣は、夜襲を掛け根白坂を奪回することを提案するが、あまりに無謀な攻撃であり、叔父の島津家久に猛反対されたという。
しかし、その制止を振り切り根白坂を攻撃するが、それを予測していた宮部軍の反撃により忠隣率いる島津側のほぼ全員が戦死するという大敗を喫した(根白坂の戦い)。享年19。
なお、その年の1月に生まれたばかりの長男・島津常久は歳久によって養育された。

●島津 忠清 (しまづ ただきよ、元亀2年(1571年) - 元和6年1月5日(1620年2月8日))は、薩摩国島津氏庶流(薩州家)の武将。通称は又助。官位は備前守。父は島津義虎。母は御平(島津義久の娘)。
義虎の三男として誕生する。
しかし文禄2年(1593年)に長兄の忠辰が豊臣秀吉の怒りを買って改易されると、弟の重富(義虎五男)、忠豊(義虎六男)と共に小西行長に身柄を預けられる。
そこで行長の家臣である皆吉続能の娘を娶り、長女と長男を授かった。
この妻は再婚であり、連れ子として娘がおり、喜入忠政の後室となっている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に小西行長が処罰され、宇土を召し上げられると、忠清は加藤清正を頼るべく熊本に入ったが、慶長14年(1609年)12月3日に子供2人を連れて薩摩に戻った。
その後、長男は新納久元の後継となり新納忠影と名乗った。
長女は島津家久の側室となり、薩摩藩2代藩主・島津光久、北郷久直、島津忠紀らを生んだことで家族の地位は向上するが、のちに忠清の死後、妻は隠れキリシタンとして連れ子の娘(喜入忠政室)およびその娘共々種子島に流刑となる(堅野カタリナ)。
元和6年(1620年)に病没した。法名は如岳院節翁玄忠大禅定門。忠影以外に男子がいなかったため、跡目は忠影の孫・新納久珍の次男である新納久基が継いだ。

●島津越前守忠栄(忠俊・藤四郎・大膳亮)。 子孫: 島津矢柄
義虎四男・天正3年誕生。母は兄と同じ御平様。

天正15年、太閤御下向の砌、兄・忠辰の人質として罷り出て、細川幽斎の預かりとなり豊前小倉へ罷り在り。
忠辰御改易以後は小倉を立ち退き日州・佐土原へ差し越し、中務豊久を頼り彼の地に在って、豊久の姉に取り合い居候していたが、豊久の戦死以後に豊久の家人らが忠栄を殺害しようと企てた為、佐土原を発し、隅州富隈へ参上仕り、龍伯公を頼り申し上げた処、母・御平様の領地である踊の内、中津川村 1,200石を御平様の跡目として受け継いだ。
その後に飯野末永村に御繰り替えとして賜り候。
寛永19年9月30日、牛根にて卒去。享年68。法名「大雲源龍」。

●頴娃氏を継いだ義虎五男・入来院重高は、wikiの通り。
頴娃久虎の子である久音が無嗣のまま朝鮮で病没した為、重高が名跡を継いではいますが
(どうやら重高が継ぐまでの頴娃氏の名跡は御平が継いでいた模様・・・)、入来院の婿となって入来院を名乗り、実の孫に入来院を、養嗣子である鎌田政近の四男に頴娃氏を継がせています。

●六男・忠豊、人質となって以降の事跡は不明。

●薩州家の再興
義虎三男・忠清の系統で別名:島津仲家という寄合衆、もう一つ、義虎四男・忠栄の系統の矢柄家という一所持格で、そこから薩州二男家の栗川氏、矢柄二男家の岩越氏、支流として西川・大野・吉利・寺山・大田という家が出ている。
三男忠清の後を継いだのが孫の島津(新納)孫四郎久基、忠栄の後を継いだのが子の島津民部少輔久基です。

※庶流の大田氏から御平が関ヶ原で大坂から脱出したおりに、身代わりの大役を果たした侍女が出ている。
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Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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