【ケンカを止めて~♪】福岡藩初代藩主編2栞歴27
朝鮮の役は、休戦をはさんで1592年~1598年まで戦闘行為が続いた。
天下の支配者・豊臣秀吉の領土的野心から始った(諸説あり)侵略戦争です。
従って朝鮮国李王朝が日本に対して異心があったという事は無い。
もともと秀吉本来の目的は唐(当時は明国)征服で、朝鮮は通り道(それも失礼な話)感覚。
秀吉は英雄の晩年にありがちの「自己肥大妄想」で「朝鮮が自分に従う」と決めつけていたようだ。
朝鮮にすれば、中国とは常に文化的影響下にあり、陸続きの大国に逆らうなどアンビリバボーで秀吉の「事業」は迷惑極まりない話だった。
一方、秀吉に動員された戦国武将たちも、戦争にかかる費用は全て自己負担なので金策に腐心した。
「朝鮮の役」は、新たに赴任した大名や太閤検地によって定められた租税率に、民力が追いつく前に起きた戦争だった。
そのため農民には従来の3~5倍以上の税率が重くのしかかり、大名たちを恨む声が出る。
大名たちは「民から絞れる限界(反乱の起きる一歩手前)」というヤバイ状態なんだが、それでも金が足りない~~~
戦費調達で借金をするものもいて、マジでケツに火がついていた。
この財政難を解消するには「唐入り」で手柄をたてて、恩賞をもらうほかはない。
武将たちは平和だった朝鮮国を戦場にして、その大地を血の色で赤く染め上げていく・・・
という事情で、武将たちは戦地で苦楽をともにする戦友であると同時に、手柄を熾烈に争うライバル!
特に「文禄の役(第一次朝鮮の役)」のメンツは絶望的にチームワークが悪く、作戦そのものにまで影響した。
戦国武将はプライドが高いし、自己主張も強いのでケンカが絶えなかったけど、今回は長政に関することを紹介します^^
作戦会議終って小宴になったとき、長政・鉄砲と宗茂・弓が「どっちが武器として優れているか」で大ケンカ。
「表へ出ろ!」ってことで、腕前を勝負することになった。
ちなみに審判は、日本軍総大将の宇喜多秀家^^
勝負は弓の名人・宗茂の勝ち~まぁ戦国時代の鉄砲の性能じゃ限界あるもんね。
長政は潔く負けを認め、勝負に使った鉄砲を記念として宗茂に進呈した(鉄砲は立花家所蔵で現存)
元明智光秀家臣三羽烏の一人・安田国継は、武勇自慢しすぎて同僚にウザがられ、あちこち転々としてた。
で、宗茂のとこに再就職決定するのだが、安田を正則も以前から欲しがってて、宗茂に先を越されたとケンカになったの。
二人を仲直りさせるため「吉川広家と黒田長政」が、宴を開いたんです。
宴で誤解がとけて、めでたく仲直り^^
機嫌良くなった宗茂は舞を躍った。
それは拳(こぶし・手の平グー)を振り回す豪快なもので、宗茂の拳は酒が入って目つきが危なくなってきてる正則の鼻先をブンブン掠めた^^;
広家と長政はハラハラして「頼む~~穏便に~穏便に~」と、祈るような気持ちで観てたらしい。
ちなみに安田は人格に定評のある宗茂の元でも、大口叩いていずらくなり飛び出してます。
最終的には長年の友人である寺沢(島原の乱の原因作った人の祖父)のとこに落ち着く。
確か安田さんの最期は、腫物が出来て、それにイライラして発作的に切腹しちゃったはず^^;
もともと朝鮮渡海前にケンカしてたんだけど、朝鮮に行って長政の方から正則に仲直りを申し出た。
納得さえすれば、正則は後を引きづらない気性の良い男・めでたく和解^^
二人は友情の証に互いの兜を交換した。
福島正則の使用している「一の谷の兜」は、もともとは長政の命の恩人・竹中半兵衛のもの。
長政が「恩人の兜を是非~」といって交換した・・・・・というのは後世の脚色だったらしい。
二人は友情の証・兜交換を約束して帰国後に、それぞれ同じデザインのレプリカ兜を造って交換したの。
オリジナルは、それぞれ自分の手許に残したままなんで、本当に友情からの交換だったようです。
もっともこれにも尾ひれがあって、長政の渡したのがレプリカで、正則はオリジナルを渡した説もあり良く解りません。
「関ヶ原の戦い」で、二人とも友情の証・交換した兜で出陣してます。
後に福島家が改易になると、福島家は黒田家に譲り受けた兜を返還しているそうです。
長政の父・如水(じょすい)は、武将たちがケンカするのを見越していました。
確かに秀家公は、育ちが良すぎて揉め事仲裁とか向いてないタイプ^^;
とにかく、この如水の言葉が秀吉の耳に届き、戦況がイマイチの現状を打破すべく、如水にも秀吉から朝鮮への出陣命令が下ります。
文禄二年(1593年)夏・・・豊臣秀頼が誕生する、この年に如水は朝鮮に行くことになったのだが、それは・またの話 by^-^sio
スポンサーサイト