【改易】薩州島津家18・栞歴26

戦国・・・欲望の祭典は終わった。天下統一の後にあるのは、生き残るための椅子取りゲーム。

記事作成出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」「参照サイト・戦国島津の女たち」^^/

参照サイト「戦国島津の女たち」URL
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/index.html



薩州家7代目忠辰・・・彼は「九州の役」で、島津宗家より一足早く降伏し、秀吉の先導役も引き受けた。

それを喜んだ秀吉から薩州家は領地安堵の朱印状を貰い、そのことが忠辰の独立志向を強めたのだろう。

豊臣政権に配慮し、忠辰は「島津姓」を遠慮し「和泉姓」を名乗ったんです。

だが肝心の秀吉は「薩州家を島津宗家から独立した大名にしよう」などと、微塵も考えていなかった。

九州を「唐入り」の前線基地と捉えていた秀吉は、九州の統治が無用に混乱することを嫌ったからだ。

いざ「唐入り」が始まると、忠辰には「島津家臣の一員として動員命令」が下った。

忠辰は「島津義弘と別にして欲しい」と申し出るが、もちろん秀吉の答えは「NO!」

んなことしたら島津の動員兵力が減っちゃうじゃん!

このころの島津家は「16代目義久派」と「17代目義弘派」に分かれて反目しあっていた・・・

ってされてるが、果たしてそれほど単純な色分けだったかどうか・・・(悩~

一つだけハッキリしているのは「宗家17代目義弘(弟」は「16代目義久(兄」から「正規の家督相続を受けてない」ってことです。

忠辰の生母・御平は16代義久の長女。そういった立ち位置から行くと「義久派」になる。

正規の家督相続を受けていない次男から命令を受けるのも、薩州家としては愉快なことではなかっただろう。

結果として忠辰は、義弘の命を拒んで「病」と称して引っ込み、戦をサボタージュした。

忠辰のサボタージュは「唐入り」に超夢中~秀吉の逆鱗に触れた、今風に言うと地雷踏みました

1592年(文禄元)12月31日~師走の慌ただしい日に御平と忠辰妻子への名護屋連行命令が下る


忠辰を取り調べる間の人質でした・・・

1593年(文禄2)5月1日~薩州家の改易処分が決定!

御平の三男・忠清、五男・忠富・六男・忠豊が小西行長に連行され、宇土に送還

名護屋にいた忠辰の妻子は処刑

同年8月27日~小西行長預かりだった忠辰は、朝鮮の加徳島にて病没


忠辰の死には自殺説と毒殺説があります。
毒殺説の犯人?もち殺るのは島津宗家ですよ。
島津に関する噂で「誰かを毒殺する時」には「一緒に杯を交わす家臣に因果を含めて死んでもらう」ってのがある。
相手が油断するように「一緒に毒杯を飲む役目」で、もちろん妻子には相応の見返りを約束します。(その辺は義理堅く約束守る島津宗家)
まぁホントに病死かもだけど^^

生母の御平は16代義久長女であることが考慮され薩摩へ戻される

自分だけ助かっても喜びや安堵なんてゼロだろうなぁ・・・どれほど苦渋の思いだったことか・・

龍伯公(=義久)御譜より

公儀(豊臣政権が薩州家を)断絶の事に候えば、重く見て右一筋(一族)を御取り立て成るまじき由

島津宗家という家(伊作系になってから)は、いかなる理由があっても宗家の意向に逆らった分家・家臣は絶対に赦しません。

それが「薩摩藩士は上に従う」という強固な士風を作った元の一つなんです。

戦国時代・・・分家や配下の国人に散々、散々~~~苦労した島津宗家の断固たる・一貫した態度で、それは幕末の「寺田屋事件」などにも垣間見えます。

その後の御平の子供たちですが、預かり先の関ヶ原で小西行長が敗北し改易になるのでバラバラになります。

★6男・忠豊~完全に消息不明です。

★4男・忠栄~薩州家の人質として細川家預かりだったんですが、薩州家改易後は小倉を出て佐土原の島津豊久を頼りました。
関ヶ原で豊久が戦死すると、亡き家久長女と組んで佐土原領を狙った(らしい)ので、旧豊久家臣が一揆を起こし佐土原にいられなくなって義久に泣きついて、母・御平の領地を受け継いだ。
寛永年間に死亡するんだけど、宇喜多秀家公が潜伏してた牛根で没してます^^

★5男・忠富~小西の元を早々に脱走し朝鮮の義弘の元に駆けつけて従軍した。
その功績で頴娃氏の家督を継ぎ、のちに入来院の婿となって入来院を名乗り、実の孫に入来院を、養嗣子である鎌田政近の四男に頴娃氏を継がせています。
御平の最期を看取ることが出来たのは、この5男だけでした。

★3男・忠清~小西の元で小西家臣の娘と結婚~一男・一女を授かる。
小西改易後に加藤清正を頼るが慶長14年(1609年)12月3日に子供2人を連れて薩摩に戻った。
その娘が島津忠恒の側室(亀寿死後は継室)となり、薩摩2代目藩主光久を産む。
男子は新納家(支流)の家督を継いだ。
ただ・・・忠清の奥方・隠れキリシタンだったらしく、忠清の死後に妻は種子島に流刑になってます。

「一族は取り立てるな(怒」って義久は言ってましたが、薩州家は武家として御家再興してました。

もちろん島津姓は名乗れませんが、島津家臣として残ることが出来たのは、やはり忠清娘が二代藩主の生母になった事が考慮されたのでしょう。

義虎三男・忠清の系統で別名:島津仲家という寄合衆。
義虎四男・忠栄の系統の矢柄家という一所持格。
そこから薩州二男家の栗川氏、矢柄二男家の岩越氏、支流として西川・大野・吉利・寺山・大田という家が出ているそうです。

・吉利家~実久VS伊作・日新斎&貴久の時に、伊作サイドだった薩州家分家です。
・矢柄家~一所持格は江戸初期には薩摩藩に14家しかなかった家格ですから、悪い扱いじゃありません(嬉
・大田家~関ヶ原の時に亀寿が大坂脱出する時に「身代わりになった侍女・大田於松」の本家です^-^
【後書き】
島津氏を調べるうちに(いつものごとく)深みに嵌り、薩州家を中心に宗家8代から17代までオタの戯言をシャウトしました。

島津家で国賊扱いされた分家筆頭・薩州家に関する通史は未だ出てはおらず、
バラバラなパーツをパッチワークの如く紡ぎ合わせるのは、マニアとしては非常に楽しい作業でした^-^
島津家の文献は専門家が「一生かかる」と言うほど膨大ですので、今後も新たな発見が出る可能性を秘めた家です。
いつの日にか、さらに詳細な薩州家の歴史が表舞台に出る日を期待しつつ、まずはひとまず筆ならぬマウスを置きます。
5話の予定が18話・・・4倍弱で収まって良かった・・・一時は終わらなくなったらどうしようかと・・・大爆
次回からは関ヶ原の話です。それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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