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【落日】薩州島津家17・栞歴25

禁断の恋とえいば、叔父と姪のカップル・ドラマ「蜜の味」にハマってました(菅野美穂ファン)

記事作成出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」^^/


参照サイト「戦国島津の女たち」URL
http://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/index.html





戦国時代の姫様の結婚は、家と家の繋がりを強化するための政略結婚が基本。

だからといって、彼女たちを「可哀想」と思うのは現代目線の感覚。

御姫様たちは実家の利権を守るために派遣される外交官。

そのために幼い頃から覚悟を叩きこまれ、家の為に働く使命と誇りを胸に嫁ぐのです。

政略結婚だけに、嫁いだ姫様にとっての幸福は「実家と婚家の蜜月」です


御平の夫・薩州家6代目である義虎は、概ね御平の実家である島津宗家に従っていたのだが、

時に独断で行動することもあったらしい。(この時期の分家は独立精神旺盛)
永禄12年(1569年)、相良氏が島津方の和睦の使者を殺害、相良・菱刈氏の連合軍が挙兵した。
これに対し義虎は詰めていた羽月城を退去し、本領の出水へ退却したため島津義久の怒りを買っている。(ウィキペディアより)

この1569年は義虎は東郷氏とガチンコしてるので、義虎は義虎の思惑があって羽月城を退去したのでしょう。

同年に大隅・菱刈氏が降伏すると、義虎は山野城を拝領しているので、宗家は薩州家にアレコレ気遣いしてたんだろうなぁ~と感じます^^;

1575年(天正4)~御平25歳~四男・島津忠栄を出産~1574年説あり


大友VS島津の「耳川の戦い」では、義虎は出水で肥後への備えとして留守番です^^

1579年(天正7)8月20日~御平29歳~五男・島津忠富(後の入来院重高)出産する


天正9年の肥後・相良氏との戦いで、義虎は先陣を務めてます^-^

1581年(天正9)~御平31歳~六男・島津忠豊を出産


戦から戻るたびに仕込んで・・・ゲホグホ・ブハ

1585年(天正13)7月25日~島津義虎が死亡。享年42(ウィキペディアだと50歳



家督は嫡男の忠辰が継ぎました。

薩州家は出水郡及び高城(たき)・水引・山野らを領し、禄高は31,900石余。

天正14年の島津軍北上(岩屋城が玉砕した時)では出水衆の派兵のみでした。

天正15年の「九州の役」が始まると、薩州家7代目忠辰は宗家16代目義久より先に秀吉に降伏している。

それだけでなく、秀吉軍の先導も務めたそうだ。

忠辰の降伏は島津が「根白坂の戦い」で敗れたことが関係しているかもです。

この戦いで御平の次男・忠隣が戦死しています。

秀吉は忠辰の降伏・先導役を務めた事を喜び、朱印状を与え領地安堵した。

忠辰は「島津姓」を遠慮して「和泉姓」を名乗ったそうだ。(出水の当て字かなぁ^^)

薩州家の人質として、御平の4男・忠栄が細川幽斎預かりとなった。

このまま何とか収まってくれれば良かったが、秀吉が朝鮮の役を始めることで、薩州家の運命が狂いだす。

義虎や実久が存命であれば、違う結末だったのか・・・それとも避けられない宿命だったのか・・・それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
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