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北肥戦誌(1501年~1510年・要旨抜粋)

★文亀2年(1502) 1月16日、千葉興常の吹挙により、龍造寺家和が将軍・義尹へ御礼を遂げた。
家和は龍造寺康家の子で父の家督を継いでいたが、今回軍忠あって加増され、大身となった為の御礼であった。
家和には7人の兄弟があり、
1は豊前守胤家(千葉胤繁に属したため家を継げず)←(実際は継いでましたがゴニョゴニョ~)
2は女で内田左京亮に嫁ぎ、
3が家和、
4は宝琳院 初代住職の澄覚法印、
5は大炊助、
6は孫九郎家兼(後の剛忠)、
7は水上山住持の天享長老である。

★文亀4(1504)
筑前へ逃れていた千葉胤繁は、頃合いを伺い龍造寺胤家と共に肥前に帰ると、小城の高田の古城に入った。
だが、東に大内・渋川、南に渋江と敵を抱えている。
そこで、そのころ上松浦の鴨打秀の勇武が評判であるため、これを蘆刈に招いて領地を与え、その息子である筑前守を婿にする盟約を交わして、西の防備を頼んだ。
更に徳島一族、空閑・前田らを味方につけ、佐留志・蘆刈の間に置いて渋江の押さえとし、龍造寺胤家・鹿江・南里・渋谷らを東の押さえとした。

またこの頃、少弐政資の末子で、父の討たれた頃に9歳であった子が、
横岳資貞に秘匿されながら西島城で成長していたのを旧臣らが大将に取り立て、
また大友親治に頼んで公儀からの赦免を蒙ると、元服させて太宰少弐資元と名乗らせて少弐を再興させた。
隔して資元は、大友の加勢を得て東肥前で旗揚げすると、勢福寺城から大内方になっていた江上興種を追い落とし、そのまま在城した。
次に、綾部白虎城の渋川尹繁を追い落とすべく、千葉胤繁と共に攻める。渋川尹繁は防ぎかねて筑後へ逃れた。

★永正3年(1506)10月17日、筑紫満門が突然高田城を攻め、翌日に落城せしめる。千葉胤繁は密かに逃れ出奔した。

★永正4年(1507) 3月、大友義長は、下知に従わない妙見城の星野重泰を攻めるべく、10,000余騎で筑後へ入った。
これに少弐資元も馬場・横岳らを召して加勢として入った。
大友・少弐勢は城下を放火し夜襲を仕掛けるも、城は要害で容易く落ちず、攻めあぐねて日を送った。
だが城内に異心を抱く者が出て、重泰を殺害してその首級を寄せ手に送り、降参を願い出る者が出たため、大友はこれを幸いと許した。
しかしながら、星野氏の先祖である物加波助能(調助能)は、高倉院に仕え徳大寺左府の推挙を以って名誉の笛を吹き世に知られた者で、
その子孫の家を絶やすのは本意ではないと、一族の星野親実を重泰の跡目と定め、大友・少弐は帰陣した。

そんな折(同月)、将軍家より、九州の諸侯である大友・少弐・菊池・伊東・島津・渋川、更に大内に対して、急ぎ宿意を忘れ鎮西の争いを止めよとの御行書が下された。
これを各々了承し、大内は少弐との、島津は伊東との、渋川は少弐・千葉介との合戦を止めた為、一時的に静謐となった。
このとき大友義長は従四位下に叙され、少弐資元は肥前守となり、菊池義国は肥後守に改め、千葉興常に屋形号が下された。
(屋形号は国主待遇です。殿様~って呼び方から「お屋形様」って呼ばれるステータスな呼称)

★足利義尹はこの頃、都を追われて大内家を頼り、島の公方または吉木御所と云われていた。
隔して永正5年1月、義尹は大内の力を借りて帰洛せんとしたのだが、これを聞いた九州の国人が供を申し出る。
筑前の秋月種貞・原田興種・麻生元重・高橋親種・立花親載・宗像氏重、筑後の星野親実・草野親永・蒲池治久・田尻種久、肥前の渋川尹繁・少弐資元(名代・横岳資誠)

・千葉介興常・龍造寺家和・龍造寺家兼、唐津の波多治・草野永信、平戸の松浦興信、高木の有馬尚監、彼杵の大村純治、肥後の菊池義国・相良義滋、薩摩の島津忠昌(名

代は子の勝久)、日向の伊東祐秀、豊後の大友一族、豊前の城井長門、対馬の宗義盛らが集まった。

だが準備に滞り、義尹ら数千艘が出船したのは5月下旬となった。
兵庫和田の御崎に着船すると陸路を取り、6月8日に入洛を果たした。
今回、海路・陸路共に入洛の用意を取り繕った宗義盛は特に忠節があったとして、翌年に義尹から屋形号が下された。

★永正7年(1510) 4月4日、宗義盛は宗盛弘と相談の上、朝鮮国を攻めるべく渡海した。
宗家は嘉吉年中から数十度、朝鮮に船を渡していた。

義盛らは彼の国の者共が怯弱であることを知っていたので大いに侮り、釜山浦に着船し陸へ上がるとすぐさま貝鉦を鳴らして鬨の声を上げ、民家に火を掛けて所々へ討ち入

った。
すると朝鮮人10万人以上が義盛らを取り囲み、弓矢を雨の如くに射掛ける。
義盛らはこれを打ち破って馳せ通らんとするが、朝鮮人は十重・二十重に囲んでおり、義盛は死を覚悟した。
すると、盛弘が打ち物を捨てて敵中へ割って入った。盛弘は無双の怪力で、敵を引っ掴み打ち散らした。
これに敵が恐れをなして少し引いた隙に義盛を船に乗せ、盛弘自らは敵を防いで討ち死にした。


だが6月から、盛弘が居宅に居るのが目撃された。
対馬の老若男女はこれを怪しみ、亡霊であろうと伺い見たが、紛れも無く生きた人間であった。
しかしながら、その人物は食事を取らなかった。
村老はこんな事は前代未聞と恐れたが、義盛は盛弘を憐れみ霊魂を祭って一社の神と崇めた。
今の対馬高崎大明神である。

その後、朝鮮の兵船数十艘が対馬の豊崎へ着いた。
義盛は悦び、「一人も生かして帰すな。盛弘の孝養に悉くを海底に斬り捨てよ」と自ら進み出て、対馬勢は数百人の朝鮮兵を一人残らず打ち殺した。
以後は商船も渡さず、しばらく通略も絶えた。

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・・・・・宗氏も調べなきゃならんな・・・・
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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