肥前千葉氏_7【家督にときめけ!庶流よきらめけ!】
出典:北肥戦誌
兄(7代目・胤鎮)と弟(8代目・胤紹)による家督争い・・・兄弟・一族の相克は千葉氏の宿命ともいえる。
だが肥前千葉氏で言えば、大内の介入が争いの原因です^^;
大内の保護下に入った胤朝は「自分こそが肥前千葉の当主になるべき立場」と信じて疑っていなかっただろう。
もちろん大内家では11歳の少年に、そのように刷り込んだに違いない。
普通なら弟(庶流)だった父・胤紹に家督相続権は無く、大内のバックアップがなければ「ただの地位詐称・家督簒奪者」で終わったはずだ。
「幕府の認めた当主が総領たる資格を有する」鎌倉だろうが室町だろうが、それは江戸時代だって変わらない。
領地境や相続権・・・それを裁決するからこその幕府だ。
嫡流や正当性の有無は度外視であっても、御公儀が認めた者が総領・・・が建前。
だから胤朝が「兄が死んだので次は自分ダヨネ(・∀・)」って思うのは、丸っきり間違いではない^^;
本来の嫡流である胤鎮が家督を奪い返したが、その後の肥前千葉家と室町幕府との関係はシオレベルでは解らなかったです( ̄ω ̄A;アセアセ
胤朝は家督を奪還(?)し、己が当主になる日を渇望しながら雌伏の日々を過ごした。
縁戚で同盟関係の肥前今川と肥前千葉が揉めた原因は、大内が流した嘘が原因だったのだが、
嘘を流したルートは胤朝の人脈ルートを使った。
嘘を流したルートは胤朝の人脈ルートを使った。
胤朝と、その周囲にしてみれば、胤鎮系譜の当主が続く限り、自分たちが日の当たる場所には出られないんです。
だが胤朝の期待は大きく外れた。
1)室町幕府の権威衰退と大内の介入を嫌われ、地元では胤朝派が支持されなかった。1468年~「応仁の乱」で東軍として挙兵した少弐教頼が、西軍の大内に敗れ戦死。
2)肥前千葉と肥前今川を争わせて「漁夫の利(人´∀`)ウフフ」のはずが、
肥前今川の方が敗れて肥前千葉が増々強くなった・・・il||li _| ̄|○ il||l
3)後ろ盾の大内が「応仁の乱」で出陣し不在で、胤朝どころじゃなくなった(;;)あぅ~
息子の政資が少弐の家督を継いで15代目となる。
一方、同年に少弐の庇護者&同盟関係だった宗氏でも、当主が亡くなり弟の貞国が家督を継いだ。
宗氏の当主交代が少弐の運命に少なからず影響する。
大内が肥前千葉の家督にチョッカイ出すので、
対抗上&立場上(だって博多・太宰少弐だもん)少弐も肥前千葉の家督に関わらないわけに行かなかった。
対抗上&立場上(だって博多・太宰少弐だもん)少弐も肥前千葉の家督に関わらないわけに行かなかった。
だが対馬・宗氏では「肥前千葉の家督に対し不介入を主張」し続け、蜜月だった少弐と宗氏との関係が崩れていきます。
それは、もう少し将来の話で、政資が継いだばかりの頃の宗氏は、少弐を対馬に亡命させて保護していました。
ちなみに新生・少弐の執権は宗盛見と宗貞房と、宗一族から選ばれた。
にしても少弐のリベンジ力が半端なさすぎで、それだけ外野勢力である大内の介入を地元民が忌避してたかもです。
少弐も鎌倉以来~って家柄で、根っからの土着勢力じゃないんだけど、本拠地を九州に置いてたから地元との密着度が大内とは違うんでしょう。
この時、肥前千葉氏は藤津の大村氏を攻撃するために浜松に着陣してました。
( ̄ko ̄)<肥前千葉では以前から大村氏の藤津領を狙ってまして。。。。
大村氏の有(蟻)尾城も1466年に肥前千葉へ対抗するために築城されたものなんです。
ちょうど祇園会の真っ最中で、そこを狙って肥前千葉勢は乱入し神事を妨げました。
すると俄かに晴天が曇り暗闇となって、さらに雷鳴に暴風雨のフルコンポ。
肥前千葉勢は「神雷?神罰キタァ━━━━ヽ(´▲` *)ノ━━━━ッ!!」とパニックになった。
アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ と船で帰陣しようとしたんですが、凄い暴風雨で全て水没。
亡くなり方がドラマチックというか余りにも突然だったため、一族がメンタル的に激しく凹んだ。。ショボーン..._φ(・ω・` )
教胤の先代で兄の元胤も、子供のないまま若くして亡くなってるので、相次ぐ当主の急死に虚しくなったらしい^^;
菩提を弔うため入道出家するだけならまだしも、諸行無常で行脚の旅路に出ちゃった~ぇえ!(゚ロ゚屮)屮
空き家同然の千葉氏は瞬く間に衰退。
残った家臣が困り果てて、やむなく大内のヒモ付胤朝を当主に迎える事になる。
時に千葉胤朝、34歳。父と兄が殺されてから23年の歳月が流れていたのだが、それは・またの話 by^-^sio
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