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【薩州か?】宗家のミカタ【伊作か?】薩州島津家10・栞歴18

出典元「島津歴代略記」「本藩人物誌」^^/

家督を巡って争う惣領五家~総州家(滅亡)・奥州家(=宗家)・薩州家・(統合⇒)相州家と伊作家

記事内呼称簡略ルール:家名+番号(〇代目)+名前(諱)
(例)相州家②運久⇒相州島津家の2代目当主で名前(諱)が運久
早わかり家系図(主要メンバーのみ抽出)◆印・別記系図、★印・現当主、~印・養子

島津奥州家=宗家⑧久豊の子供たち
 長男・用久(薩州①)⇒国久(薩州②)⇒重久(薩州③)⇒忠興(薩州④)⇒★実久
◆嫡男・忠国(宗家⑨)
 3男・季久(豊州①)⇒忠廉(豊州②)⇒忠朝(豊州③)⇒★忠広(豊州④)⇒忠親(豊州⑤養子)
 4男・有久(羽州①)⇒★忠福(羽州②)⇒忠明
 5男・豊久(伯州①)⇒忠常(伯州②)

◆島津宗家⑨忠国⇒相州・友久(①)⇒運久(②)⇒★忠良(③)⇒忠将(④)
        ⇒宗家・立久(⑩)⇒忠昌(⑪)⇒忠治(⑫)忠隆(⑬)勝久(⑭)~★貴久
        ⇒伊作・久逸(⑧)⇒善久(⑨)⇒★忠良(⑩)⇒貴久

宗家14代目・島津忠兼(勝久)のシオイメージは、ひとこと「小賢しい男~





1519年(永正16)5月12日~兄・忠隆の死で末っ子の忠兼(勝久)が、島津宗家14代目となる

同年~大隅・曽於城の伊集院尾張守が背き、翌年にこれを降伏させる

⑭忠兼~家督を継いで早々に謀反があったようですが、翌年に鎮圧できました。

1520年(永正17)?月?日~伊作⑩忠良の次男・忠将(後の相州④)が産まれる

?年?月?日~島津忠兼と薩州⑤実久の姉が結婚

1521年(永正18)8月23日~大永に改元

1525年(大永5)10月9日~薩州④忠興が死亡(生年不明のため享年不明~

同年10月10日~伊作⑩忠良の生母・常盤が死亡


一日違いで死んでたんだ・・・薩州も伊作も喪中でつ^^;

公(⑭忠兼のこと)はまた君子に非ずして国治まらず、実久は寵臣として権威を募らせ、公が政道を怠るを見て守護職を奪わんと志した為、封地は大いに乱れて背く者多し。
「本藩人物誌」より抜粋

能力や向き不向きは別にして、懸命に頑張った父・兄と違い、忠兼は妻の弟・薩州⑤実久にオンブに抱っこだったらしい。

次第に実久は宗家当主の義弟として、権勢を振るうようになったそうだ。

そうなると困ったのが忠兼。彼には義弟を政治的に抑え込む器量など皆目無い。

1526年(大永6)?月?日~⑭忠兼は伊作⑩忠良に国政を委任、南郷・日置の両村を加増する

同年11月18日~伊作⑩忠良嫡男・貴久が、⑭忠兼の養子となり宗家の家督を継ぐ、貴久は13歳の少年だった

同年12月~帖佐城主・辺川筑前守(忠直)が実久に与して背く。実久が援軍を出す

伊作⑩忠良は軍勢を発して辺川を討つ。殺された城兵は500余人

宗家⑭忠兼は喜び、伊集院の地を忠良公へ進呈した(←大盤振る舞いww


1527年(大永7)4月?日~宗家⑭忠兼は伊作で隠居~代わって養子・貴久(14歳)が鹿児島・清水城に入る


同年5月~帖佐地頭・島津下野守昌久と加治木城主・伊地知周防介が実久サイドになったのを受けて、伊作⑩忠良は再び討ち手を出して両者を討つ


薩州⑤実久は、忠良が出陣し伊作を留守にした隙に、自ら伊作へ赴いた


薩州家が歴史の勝者であれば、実久の行動は「英雄の壮挙」と称えられたことだろう。

だが記録は彼を「乱賊・奸計」と罵ることになるのだが、それは・またの話^-^
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テーマ : 歴史
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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