【当主の】11代忠昌【覚悟】薩州島津家5・栞歴13

記事内呼称簡略ルール::家名+番号(〇代目)+名前(諱)

例)相州家②運久⇒相州島津家の2代目当主で名前(諱)が運久
宗家の座を巡って争う惣領五家「総州家(滅亡)・奥州家(=宗家)・相州家・伊作家・薩州家」
早わかり家系図(主要メンバーのみ抽出)◆別記系図~★現当主

島津奥州家=宗家⑧久豊⇒長男(庶子)用久(薩州家①)⇒★国久(薩州家②)
           ⇒◆嫡男・忠国(宗家⑨)
           ⇒3男・季久(豊州①)⇒★忠廉(豊州②)
           ⇒4男・有久(羽州①)⇒忠福(羽州②)
           ⇒5男・豊久(伯州①)

★島津宗家⑨忠国⇒長男(庶子)★友久(相州①)⇒運久(相州②)
        ⇒嫡男・立久(宗家⑩)⇒★忠昌(宗家⑪)
        ⇒3男・★久逸(伊作⑧)⇒善久(伊作⑨)

宗家⑪忠昌の生母は梶原弘純の娘・茂山夫人。

御祖父ちゃんにあたる梶原弘純は、梶原景時(義経と不仲な例の方)の三男・景高の後裔( ゚д゚)ンマッ!!

マイナートリビア~~~御祖父ちゃんの地位とかは不明ですが、ハッキリしてるのは間違いなく「家臣格」だということです。

父を亡くした若年当主・忠昌には、家中に政治的な後ろ盾が無かったということになります。

武家において、嫡男と庶子の扱いの差は、天と地どころか宇宙と深海くらいの差があります。

分家当主とは、庶子であるがために当主になれず、別家を立てさせられた男子です(出家するよりは、マシかどうかは当人次第

たとえ長男であっても、嫡子(正室の子)でなければ当主にはなれない(長子相続は江戸期から

分家たちは腹立たしかったでしょう・・「忠昌は庶子!・・宗家に男子が一人しかいなかったから当主になれただけで、本来なら家督を継ぐべき者ではないのだ!」心の奥底に渦巻く思いを彼らは時に抑えがたかったに違いない





1478年(文明10)?月?日~忠昌は桂庵玄樹(臨済宗僧侶)を招聘して朱子学を講じ、薩南学派の基礎を築いた


軍事より文学に優れていたと言われる忠昌だが、相次ぐ天変地異で乱れた人心を学問をもって治めたかったのかもしれない。

桂庵玄樹は豊州②忠廉にも招かれて講義したり、弟子の育成・著作活動もしている。

桂庵玄樹を始祖とする薩南学派は、18世紀に荻生徂徠や室鳩巣の門下生が薩摩に帰国するまでは盛んだった。

このまま穏やかな日々が続けば、忠昌は学をもって国内を安定させた名君と謳われたかもしれない。

だが戦国時代は、安逸な日々の方が短いのだ。

1484年(文明16)「第一次飫肥の役」が起きる

あろうことか島津分家・伊作⑧久逸が、敵として飫肥城を攻撃する側にいたのだ!



以下出典元ソース:島津歴代略記


伊作の領地から日向・櫛間へ、伊東家に対する備えとして入った伊作⑧久逸だったが、

同じく志布院から日向・飫肥院(城)に入った新納元続と不仲になってしまった。

領地で揉めたとあるが、一番の理由は久逸の日向における勢力拡大を、味方であるはずの新納元続が恐れたことによる。

新納元続は主君・忠昌に「久逸を伊作へ戻して下さいな♪」と要請した。

忠昌は飫肥城の守りを重視し、新納元続の申し出を受けて「久逸叔父上~伊作に帰って下さい」と命じた。

が、これに久逸が激怒・反発「おのれ~新納~~~忠昌様にいらざる進言したなぁ~赦さん!」

久逸は敵だった伊東祐国と連合ファイトーー!( °ロ°)乂(°ロ° )イッパーーツ!!と飫肥城を攻撃

これに便乗して祁答院重度・入来院重豊に菱刈氏・北原氏も蜂起~たちまち大乱となった

忠昌は飫肥に援軍を送ったが失敗する


ネットの一部では、この時飫肥城は一度落ちて翌年に奪還した。という記述もあったが、結果からいうと新納元続は何とか飫肥城を守り通した。

新納元続の弟・是久は、娘・常盤が久逸の息子・善久に嫁いでいたこともあり、久逸サイドになってます。

はじめは和睦を謀った帖佐の豊州②忠廉までが忠昌に叛旗を翻す

豊州②忠廉は、大隅の菱刈氏重や相良長輔らと同盟して、もはやあちこち大炎上~~~


あ、相良長輔は当主じゃないです~ちと来歴わかりませんでした^^

これを憂えた薩州②国久は水俣に相良為続を訪ね、相良為続と共に豊州②忠廉の説得に努めた為、忠廉も遂に当主・忠昌に帰順した


薩州家~渋い~~重鎮の魅力~~~ウットリ(人´∀`).☆.。.:*・

このころ宗家⑪忠昌は、病身多病で京都の名医・竹田法印昭慶を招いて療養に努めていた。

だが、事態を収拾するために病身を押して出陣を決意する。

竹田法印はΣ(´Д`;)「と、、とんでもない!ドクターストップ!!お命に係わります!どうか他の者を派遣し、ご自身の出馬は思いとどまってください!」

忠昌は「身を愛するの故をもって、国の大事を廃せむや!」と主張し出陣


逆に竹田法印に要請して、同行してもらうこととなった。

学問好き忠昌は、しっかと当主としての覚悟を腹に収めた人物だった。これでこそ島津当主です。

宗家11代目忠昌・・時に数え22歳、この時点で彼には未だ男子がいない


あ~~~ぁ、5回で終わるって言ったの誰だったっけ~~~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

それは・またの話^-^sio
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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