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【北肥戦誌・1589年】天草国人一揆

天正17年の秋、小西行長は宇土城の補修を行っていたのであるが、天草本渡城主・天草種元と志岐城主・志岐麟泉(鎮経)に普請を手伝うよう遣いを出した。
だが両人これを嘲り、「一昨年、関白殿下が薩摩へ御動座の際に、我らは筑前秋月へ向いすぐさま拝褐し、殿下が御帰洛の砌に御朱印を賜っております。故に公儀の御普請であれば小西殿の下知に従いまするが、小西殿の私的な普請は承りかねます。また我らとて、相応の疲城とはいえ城持ちですので、修理経営に領内の百姓らを貸す暇もないのです」と返答した。
行長はこれに憤り、秀吉へ訴える。
秀吉が、左様な奴らは誅伐を加えよと下知すると、行長は家臣・伊地知文太夫に3,000の兵を与え、まず志岐城を攻めるべく近くの袋浦へ差し向けた。
だが船でそこへ上陸すると、麟泉は夜襲を仕掛けて文太夫の3,000余騎を悉く打ち殺し、舸子・船頭の命を援けて追い帰した。
これに狼狽した行長は、隈本の加藤清正へ援軍を乞うた。
清正は佐々平左衛門・瀧野讃岐守ら1,500余騎を宇土へ向かわせ、また行長も手勢6,500を率い、総勢8,000が船で袋浦へと渡る。
麟泉は干潟まで出て戦おうとするが、行長はこれを侮り難しと思い、すぐには戦を仕掛けなかった。
すると麟泉の勢から若武者共が出てきて「京衆京衆なぜ鑓せぬぞ。かふすの皮のすもりか」と悪口を拍子に乗せて囃し立てる。隈本からの加勢はこれを堪えかね、槍を揃えて突き掛かると小西勢もこれを見て続く。
敵味方入り乱れて戦い、両陣に死傷者が多く出ると、城兵は志岐城へ引き退いた。
このとき小西・加藤の討ち死にの将は27人、討ち取った首級は21という。
寄せ手は城攻めを開始、城には麟泉の手勢2,000余、天草よりの援兵の侍20騎、弓・鉄砲300挺が詰め、合力して防戦する。
また志岐城は、東は深谷で水が流れ、南は高山で林木が生い茂り、西北は人家に連なり、更に海に囲まれ、西岸は屏風のように岩石の壁となった要害で、容易くは落ちなかった。
そんな折、松浦久信・有馬政純・大村嘉前・波多親・五島(宇久)盛家ら、更に龍造寺家より成富家為の500余人が寄せ手の加勢に入り攻囲した。
行長は、志岐の縁者である有馬政純を通して、城を降って和睦すれば秀吉に執り成すと伝える。
麟泉がこれに思案する間、合戦は行われなかった。
すると、前回の仕返しとばかりに寄せ手より「城衆城衆なぜ切って出ぬぞ。志岐しや志岐しやへのこしきしや」と、手拍子と嘲笑が返された。
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
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