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【北肥戦誌・1588年】城井一族抹殺

天正15年の夏、豊前の城井鎮房も累代の所領を召し上げられ、伊予国に僅かな新地を子息の城井朝房に給わった。

だが鎮房は愁訴し「某の領地は後鳥羽上皇の勅宣を以って、先祖の宇都宮彌三郎以来400余の歳月の間、今まで知行してきたものです。頼朝・尊氏・義満代々将軍家の證判を頂戴し、累祖相伝の所帯に御座います。願わくば豊前の旧領を拝領致したく」と述べたが、

関白は大いに腹を立て鎮房は勘気を被り、彌三郎(朝房)が給わる筈の新地も召し上げられ、父子共に浪人となった。

しかし、肥後一揆が発生し毛利・黒田が出陣し留守となると、旧領の城井谷へ帰り譜代の家臣を集め、旧城を補修して武備を構えて立て籠もった。

これに黒田長政が兵を率いて城井谷へ馳せ向かうも落とし得なかった。

毛利勝信も肥後一揆を差し置いて、小倉へ戻り黒田勢に加わった。

更に長政の父・黒田考高も肥後陣から中津へ帰りこれに加わるが、城が要害である為に鎮房は事も無げであった。

考高は考えを廻らし、翌天正16年(1588年)1月に偽りの和平を懇望し、城井の娘を長政と縁組し、考高の娘を人質として城井谷へ入れる事で和談に至り静謐となった。

その後、鎮房を中津の城へ招き、饗膳の後に酒宴となったが、酌を取った童野村氏に言い含め、敢え無く鎮房を惨殺、供の者50余人も悉く誅殺した。

考高はすぐさま家臣・栗山四郎右衛門・井上九郎右衛門に士卒数百人を与えて城井谷の城へ差し向ける。

両人は城中へ鎮房が討たれた事と、考高の娘を返せば城井の娘も返す事を伝えると、城中はこれを承諾し考高の娘を返した。

だが黒田勢は娘を受け取ると急ぎ帰陣、城井の娘は返さず、これを磔にした。

娘はこのとき一首の歌を詠んだ。
「中々にきいて果てなん唐衣 たがため(誰が為)織らん はたもののうへ(機物の上)」

鎮房退治を秀吉は悦び、考高に城井領20,000石余を加増した。

同年閏5月、関白秀吉は聚楽第へ加藤清正・小西行長を召し出し、清正へ隈本城と領地20万石、行長へは宇土城と19万石を下賜した。

また、清正は佐々家臣の内から300人を召し抱える。

更に両者には高麗出陣を前に5万石が加増され、肥後の代官とされた。

6月27日、清正・行長は肥後へ着くと、それぞれの城へ入った。

だが、伯耆(名和)顕孝の親類で、玉名郡小森城主・伊津野将監という者が清正に従わず、500余人で清正の代官・岡田将監を殺そうとした。

岡田がこれを清正へ注進すると、清正は騎馬200、鉄砲500を以って小森へ進軍、その日のうちに城を破って、伊津野将監共々城兵を悉く討ち取った。

同年7月初旬(5月8日とも)、龍造寺政家・嫡子の長法師丸・鍋島信生が上洛。

同年7月下旬、毛利輝元・小早川隆景・吉川広家上洛。

秀吉は3人が一揆の際に九州を守り平治を齎したのを賞して、輝元を三位宰相、隆景・広家を四位侍従へ叙した上、桐菊紋を許した。

また、隆景は筑前守に任じられる。

同28日、島津義弘・龍造寺政家・立花統虎・毛利秀包らに四位侍従が叙され、桐菊紋が許される。

政家は肥前守に任じられた。

11月、龍造寺政家・鍋島信生は在京中であるが、政家が病を得た。

幼少の長法師丸では御奉公が難しい為、成人するまで国政は鍋島信生へ預け置くよう、政家は小早川隆景へ相談、隆景が関白へ上言し認められた。

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如水に娘なんていたっけ?ヽ(。_゜)ノ
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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