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【北肥戦誌・1587年(肥後国人一揆、中篇)】

7月24日、ならば隈部を攻めんと、成政は6,000余騎を率いて親永の城を攻めるべく取り掛かる。

そのとき、親永の家臣に多久大和守という者があったが、理由は不明だが俄かに心を変じて、佐々勢を城内へ引き入れた。

このため城内は混乱し佐々勢に討ち負けて悉くが戦死した。

親永は法体となって城外へ逃れた。

親泰は佐々勢が父を攻めると聞き、親永の城の後方・玉正寺原まで出陣したが、既に落城しており一戦に及ばず、そのまま山鹿へ引き返す。

そして一族や浪人を集めて兵糧を用意の上で城へ立て籠もった。

それを知った成政は、急ぎこれも討つべしと、8月7日に隈本城を打ち出て山鹿へ着陣、
まずは斥候を日輪寺山へ上げて城内を量らせ、足軽に鉄砲を打ち掛けさせると、その日は取り敢えず隈本城へ戻った。

同月12日、成政は家臣の佐々興左衛門成能・佐々右馬助らに3,000を与え山鹿へ向かわせた。

興左衛門らは三方から城を攻める。

右馬助が谷を上がり攻め入ると、これに城兵は崩されかけたが、親泰自身が槍を縦横に突いて廻った為に城兵が気を立て直すと、状況は逆転し右馬助は討ち死に、寄せ手は200余人の犠牲を出して敗走する。

寄せ手が成政へ注進すると、成政はまた3,000を率いて山鹿へ向った。

これを知った有働兼元は、半途で成政と勝負致さんと、こちらも3,000を率いて成政陣へ打ち入る。

だが進み過ぎた為に打ち負け、山鹿へ引き退いた。

成政はこれを追い掛け城を攻めたが、守りが堅固な為にその日は山鹿で夜を明かした。

成政が隈部を攻めたと聞き知った地侍らは、明日は我が身と成政の治世を疎み不安に駆られた。

そのとき隈府の浪人・菊池香右衛門が、隈部の事を聞いて、急ぎ御船の甲斐宗立(親秀)に対面し、
「佐々殿は、関白の上意と偽って国中の所領を掠め取って横領しようと考えているのでしょう。ここに於いては一人も逃れられる侍はありますまい。唇亡びて歯寒しとはこの事です。これを関白へ訴える為にも、一揆を企て隈本城を攻めるべきです」と述べた。

宗立は同意し急ぎ近隣に呼び掛けると、玉名の小代親泰・阿蘇一族の下城摂津守・北里三河守ら、今回所領から離された者らは、鬱憤を晴らす時がきたと悦び、方々より馳せ参じて来た。

多勢となった一揆は同月12日、成政が留守の隈本城を三方から囲み鬨の声を上げた。

城内は思いも寄らず周章狼狽する。

寄せ手は鉄砲を打ち掛けながら攻め入り、二の丸を焼き落としたが、城兵も矢玉を雨の如くに浴びせたため、それ以上は破り得なかった。

これを知らされた成政は、まず興左衛門を隈本へ帰し、自らはそのまま山鹿の城の押さえとなった。

が、興左衛門は内久賀鎮房に途中で遮られて討ち死にする。

これに力を落とした成政は、ならば隈本へ帰って一揆共を討たんと、13日の暮れから山鹿の東西に付城を構えて、人数800を残した上で、自らは15日に陣を引き払う。

その際、本道を通れば内久賀勢に遭うと思い、迂回して茶臼山へ登って隈本城へ入ろうとした。

一揆勢はこれを幸いと、茶臼山でこれを迎撃し6~7度戦う。

これに佐々勢が敗れかけた時、一揆に味方していた小代親泰ら3名が佐々方へ内通しており、一揆を裏切って攻撃し始めた。

隈本城兵は小代合図と気付き、城戸を開いて打って出ると、敵を三方から挟み撃ちにしたため、一揆は敗走する。

成政はこれを追い立て、3,900人が討ち取られた。成政は勝ち鬨を上げて隈本城へ入った。

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時乃★栞

Author:時乃★栞
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