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【決定~後継者!】島津氏8・栞歴8

古き血族の頂点に立つ者(妻・亀寿)が上か?!

公儀が認める初代藩主(夫・忠恒)が上か?

政治的に立場を異にする夫婦は、真向から対立した


対立は憎悪となった。忠恒は妻をババァと呼び、亀寿(かめひさ)は夫をアレと呼ぶ。 

もはや二人が普通の夫婦関係に戻るのは不可能だった(--;)

ここに一人の娘が国分城(きりしま市)の亀寿にお目見えし、忠恒の側室となった。

娘は2代藩主・光久を産み、亀寿の死後に忠恒の継室となる。

光久の生母はウィキペディアで検索すると「島津忠清娘」とある。

この島津忠清というのが、秀吉の怒りに触れ改易された分家・薩州島津家の残った男子。

実は島津忠清の母親は亀寿の姉(義久・長女/御平)でして、とどのつまり16代当主・義久の曾孫にあたるのが光久の生母だ。

絶望的な不仲の藩主夫妻が、互いの血流を残すべく接点を見出したのが、薩州家の血を引く娘だった。

父・義久を失い追い詰められた亀寿はともかく、忠恒の方が妥協をしたのには当然ながら理由がある。

そして、ここからが島津家の秘事に属する事柄になるのだ。 




島津家には、当主だけが所持を許される「御重物」という、家宝中の大家宝があった。

御重物とは、現在「国宝」の指定を受けている「島津家文書」のことである


話は遡って天正15年(1587)に島津が秀吉に降伏したとき、16代当主・義久は秀吉への恭順の証として隠居し、家督を弟・義弘に譲った。

だが心から秀吉に臣従していなかった義久は、「御重物」を義弘に渡さず末娘・亀寿に渡してしまった(姉たちは既に分家に嫁いでいた)

※島津家文書は現在は東大にある(時の当主が個人所有の限界を感じて預けた)戦後に文書の研究が飛躍的に進み、義弘が正規の家督相続を受けていないことが判明したんです。

そのため島津家は「義久・義弘の両殿体制」になり、秀吉が家督問題に介入したせいで、更に「義久・義弘・忠恒の3殿体制」になってしまう。

対外的には「藩主=イコール当主は忠恒」だが、薩摩内部では3殿体制で、家中への発布は3人の連名になっています。

義久が亡くなり政治的に逼塞していても「御重物」を所持する亀寿が島津宗家・正統相続者であることに変化はなく、あくまでも次期当主指名権は亀寿にあるんです




島津忠恒~~イメージ画像

隠居した義久が「御重物」を渡してくれない事に対する義弘の胸中は、島津家の秘事に関するデリケートなことなので解らない。

ただ義弘の息子と正統相続者の亀寿が結婚することで、本来なら時間が解決する・・・はずだった^^;; 


さらに言うと、何かにつけて庇ってくれた義弘が死んだ後も、亀寿が忠恒に殺されずに済んだのは、亀寿が「御重物」を隠し持ち、夫には絶対に渡さなかったからです。

2代藩主・光久をウィキペディアで検索すると「亀寿の養子」とある。

つまり光久は「藩主・忠恒の息子」だから当主になれたのではなく、「亀寿の養子」だから跡を継げたの^^b

寛永7年(1630)、亀寿は病を得て60歳で苦難の人生を終えるのだが、そのさい家老に固く固く遺言したのが、

亀寿の遺言:「御重物」をアレ(忠恒)には絶対渡さないで!!光久に渡して!絶対に間違えないで!光久よ!!


当時の忠恒には、光久より溺愛する5男がいて「家督は5男じゃね?」ってウワサが出てた。 

忠恒にウッカリ渡したら、光久を廃嫡して後継者を変えるかも~って心配したんです。

結局、忠恒は当主でありながら「御重物」を、終生自分の物にすることが出来なかった^^;




御重物を無事受け取り・家督を継いで・諸行事終り・難問山積ながらも、ほっと一息の光久の下へ、家臣が血相変えて報告に来た。

家臣:殿!!一大事です!!亀寿さまの墓がありません~~~!!

光久:???養母さまの墓は遺言で高野山でしょ?本国にまだ建ててないの?

家臣:高野山に墓を建てたって御隠居(忠恒)様のウソっぱちです!!亀寿さまの遺骨は葬儀もされないまま国分城で放置されてます




天地がヒックリ返り・心臓が口から飛び出て・ヘソが茶を沸かす・アンビリバボーの世界~~~

あろうことか、亀寿の遺骨は約2年も放置されていたのである。

とにかく呼吸するのを忘れるほど、ビ~~~~ックリした光久。

即効で葬儀を行い、高野山に墓を作って納骨、本国に菩提寺も建てて、家臣らに月命日の5日には墓参に行くように厳命した。

一説には「亀寿の祟り」を恐れたとも言われているが、祟るなら忠恒の方なのでは・・(--;;)



忠恒は、幕末の雄藩となる薩摩藩の土台を作った男で、そういう意味では名君です。

が、余りにも「偉大な父」と「偉大な叔父たち」を持ち、さらに「若死にした優秀な兄」がいたため性格が屈折する^^;

亀寿から見れば精神的DV夫だが、忠恒を慕う家臣も多数いて、彼が死去したときは殉死者は9人もいるし、

信賞必罰・薩摩人らしく武勇を愛し、家臣を庇って将軍連枝と大喧嘩するくらいの気骨もある。

何より「西軍・副大将の宇喜多秀家公を匿う」のは、相当の胆力が無いと出来る事では無い。

が 財政難でありながら鹿児島(鶴丸)城を作り、農民に重税を課してもいる。

鹿児島城築城は父・義弘は大反対だったが、言う事聞かない息子は強行^^;

義弘:あんな要害悪いとこに造って,いきなり[背水の陣]ですかぁ!?書院だの茶室だの数寄屋造りだの,自分の趣味の部屋ばっかり先に作って,まだ風呂が出来てないって、なんじゃそりゃぁ!!


と,お叱りを受けてます^^;

まぁ要害悪いとか、天守が無いとかは、幕府に遠慮したんじゃないかなぁ(風呂が後回しなのは謎)

忠恒は、良い方にも悪い方にも極端で、評価が難しい複雑な内面の持ち主です。

ただ島津家久・豊久ファンとしては、忠恒が改名してるのは承知しているが「家久(こっちの家は家康からの偏諱)」とは呼びたくないんだなぁ^^

とにかく別居生活20年に及ぶ夫婦の愛憎は終り、秀吉が口出ししたせいで拗れまくった島津の後継者問題は落着した。

亀寿は法号・持明(じめい)夫人~薩摩言葉でジメサァと呼ばれ、現地では「ジメサァ祭り」という祭礼が残っています。

亀寿の墓は忠恒の側にはなく、仲睦まじいと伝えられている最初の夫・久保の側にあります^-^

参考資料(国分衆)町田家正統家譜

さて、次回からは島津別伝~宗家になれなかった分家筆頭~薩州家です。それは・またの話^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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