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【最悪な夫~by亀寿】島津氏7・栞歴7

薩摩お家流剣法・示現流(じげんりゅう)創始者・東郷重位(とうごう ちゅうい)彼が主君・忠恒(ただひさ)の命令で殺した家臣の数は19名~


忠恒:こりゃシオシオ~~ワシだけ悪者にすなっ!バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!
   叔父貴(義久)もMr重位・東郷に依頼しとるのを書け!!

シオシオ:あ~あ~聞こえない~薩州家書きたい~~~相良も書きたい~~~佐賀もやりたい~~~~




亀寿(かめひさ)は、島津16代当主・義久(よしひさ)の末娘で、島津家の正統相続者だった。

そのため女の身ながら、島津家の中では「別格(当主クラス)の扱い」を受けていた。

残念ながら現存していないが、藩主同様に肖像画も描かれていたし、彼女付の家老も数名いる。

島津家中は勿論のこと、17代当主・義弘(よしひろ)でさえ、

姪にして嫁でもある彼女に対して、名前を呼ばず「御上(おかみ)様」と尊称で呼び敬意を払っていた。

「亀寿」というのは彼女の幼名でして(女性で幼名が残っている例も少ないのだが)尊称で呼ばれ続けていたので成人後の亀寿の名前が不明なほどだ。
(残された文書も「亀寿」のことを書く時は「御上」と敬称で記して「名前」を書いていない)
(「名前」を声に出して呼ばない・・・記録にすることすら遠慮する・・・このことを持ってしても亀寿が薩摩きっての貴人として最高級の待遇を受けていたことが推察できます)

亀寿は最初、義弘の次男・久保(ひさやす/亀寿より2歳年下)と結婚していた。

大変に仲睦まじいラブラブ夫婦で、久保との結婚生活が亀寿にとって最も幸福な数年間だったろう。

優秀な武将・久保は、島津家中から慕われ将来を嘱望されていたのだが「朝鮮の役」の戦地で病死してしまう(文禄2年・1593年)




悲嘆にくれる亀寿へ、追い討ちのように秀吉が島津後継問題に首を突っ込む。

正統相続者である亀寿は勿論、亀寿の父・義久の意思も完全スルーして、久保の弟で義弘の3男・忠恒を後継者に指名!

石田三成に命じて二人を無理矢理に結婚させてしまう。これで夫婦関係が上手く行く筈が無い。

亀寿と忠恒は「夫婦」とは名ばかりで、もしかしたら一度も実質的な夫婦関係が無かったのではないだろうか。

天正15年(1587年)に秀吉に島津が降伏してから13年間、亀寿は人質として伏見と大坂で寂しく暮らしていた。

もちろん秀吉が亀寿の上洛を要求したのだ。

細川忠興の仲介で一度帰国しているが、まもなく再び人質として上洛している。

秀吉死後、不穏になる政局を危ぶんだ父の義久は「亀寿を薩摩に返して!!」と、石田三成に何度も懇願している。

だが、亀寿の島津での地位を知っている三成の返事は当然「NO!」

義久の三成に対する不快・不満の一つとなった。

そう・・・1600年「関が原の戦い」の時、亀寿は大坂の島津屋敷にいたのだ。
(病み上がりの身体だったので、本戦前に脱出しそこねた)

西軍が負けても「豊臣家」は亀寿の帰国を許さない。

やむなく厳しい監視と検問の中、侍女を身代わりに大坂脱出!

西宮(大阪府)で、敵中突破して退却してきた義弘と合流した。

義弘の薩摩への撤収は、亀寿と義弘の妻と(どういう経緯か謎だが秋月家の妻女も同行)侍女数名の女連れだったので、非常に困難を極めたのだ。

義弘と薩摩兵は、命に代えても「島津宗家正統相続者・亀寿」を無事に薩摩へ帰さなくてはならなかった。

とはいえ、女の足では行軍速度は思うように行かない。

そこへ同じく西軍に属し九州目指して脱出中の立花宗茂と偶然に出会った!

敵中突破でボロボロの島津勢と違い、まとまった軍行動してた立花さんの協力で無事・薩摩に帰還したのだ。


江戸幕府の時代になり「亀寿を人質として江戸へ」って話は何度か出るが、そのたびに父・義久が話を握りつぶし、亀寿を守っていたようだ。
(かわりに義弘の娘・御下姫が人質として下向^^;)

夫・忠恒は「自分より格上」で「藩主より敬われる妻」亀寿の存在を既に憎悪していた。

慶長14年(1609年)忠恒は幕府に「将軍家の跡取り竹千代の弟・国松を養子に欲しい」と申し出る。

島津家老:うちの藩主の奥さん,もう44のババァで女終ってて,藩主もアレじゃナニが出来ない~無理って感じで、子供できそうにないんです

幕府:ブハゲホグホ~将軍家には男子が二人(2代様の隠し子は未公表)しかいないから養子無理だよ~奥方が高齢でも藩主は七つ下の30代でしょ、愛人作って頑張りなさい~


もちろん幕府が断るのは折込み済みで、これは宗家正統相続者の妻を差し置き、愛人作るための大義名分ゲットするための作戦でした。

そして慶長16年(1611年)多病ながらも長命だった義久が、国分城(現きりしま市)で病死した。



島津忠恒~~イメージ画像

忠恒は、父の葬儀のため鹿児島城から国分城へ訪問した亀寿を、そのまま国分に押し留め強引に別居。

かねてから用意してた愛人を一気に8人置いて子作りに励んだ。

そして義久派閥の家臣たち、平田増宗(家老)平田宗親(家老)比志島国隆(家老)を処刑!!

冒頭に上げたように、次々と義久に忠実だった家臣を(Mr東郷が)殺していく。

後ろ盾の父・義久を亡くし、頼みとする家臣が次々殺され、亀寿は為す術もなかった(;;)

気質優れた亀寿は秀吉夫妻の覚え目出度く、北政所からは帯や着物を下賜され、秀吉からは1万石の化粧料(亀寿の個人資産)をプレゼントされていた。

その亀寿の化粧料を忠恒は奪い、さらに国分城の家臣(国分衆)に圧力をかけて亀寿への生活費の仕送りを完全ストップ!

16代当主の娘で、17代当主の姪で、18代当主の正室で、島津宗家正統相続者の姫様が、お城の中で餓死寸前(リアル・ほんとに怖い童話)

義弘:いい加減にせんか!!こんバカ息子が!!バキッ!!( -_-)=○()゚O゚)アウッ!


加治木で隠居生活してた義弘の元へ、忠恒の厳重な監視を逃れて駆けつけた家臣の知らせが間に合い、

亀寿は義弘の手配で国分城で暮らせるように配慮してもらうことができた。

忠恒は亀寿への嫌がらせのために、側室との間に子供ができるたびに、いちいち知らせていたらしい^^;

元和2年(1616年)庶子の中で一人の男子が誕生する。

源氏物語の「光る君」のように、宮中の女官たちまでが胸キュンさせたイケメンボーイ。

その男子こそ、のちの薩摩藩2代藩主・光久なのだが、それは・またの話(^-^)sio


参考資料(国分衆)町田家正統家譜
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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