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【三成の誤算】島津氏4・栞歴4

島津氏16代目当主・義久は「賢弟愚兄の見本」と、よく言われているが、バカ殿に島津当主は務まらない。

実は義久は体も弱く、しばしば体調を崩し寝込んでいる。

そんな義久が当主でい続けたのだ。「愚かな兄」であるはずがない。

現実に島津氏の勢力が最も拡大したのは、義久の代だ。

シオ脳内イメージでは「西郷隆盛が戦国に産まれたら、義久みたいだったかなぁ」と思う。

どっちも肖像画(写真含む)を嫌って残さず、素顔が不明なとこも似てる^^

つまり「自分は口出しせずに、部下の力を2倍3倍発揮できるように配慮する」典型的な「薩摩型リーダー」です。

天才・猛将そろいの弟たちは、ノーブル長兄・義久が大好きでメチャクチャ尊敬していました。

その義久には息子がおらず、娘が3人いました^-^



島津十字

末娘・亀寿(かめひさ):義久の弟で、現当主・義弘の息子(久保)と結婚^^wedding anniversary~~

亀寿の夫が朝鮮の役に出兵!朝鮮で病死!!末娘が未亡人に!!Σ(´Д`;)

次女(名前?諸説あり):分家/垂水(たるみ)島津家に嫁入り^^wedding anniversary

次女の夫が朝鮮の役に出兵!巨斉島で病死!!Σ(´Д`;)次女まで未亡人!

長女・御広(おひら):分家/薩州家に嫁入り~^^wedding anniversary

ダンナ(義虎love)は、普通に病死~息子が成長し「朝鮮の役」に出兵~~

長女の息子が,島津当主義弘に従がわず,戦に出ないΣ(´Д`;)ちょ~おま~それヤバイ

怒った秀吉により長女の息子は捕らえられ小西行長にお預かり~そのまま失意の病死!(ただし自殺説と暗殺説あり

とどめ!長女の残る息子は家督を継げず,そのまま小西行長の宇土にお預かり薩州家は改易処分!


ひーーーーん!娘たちが・・・孫たちが・・・涙ドバーッ(┬┬_┬┬)

前当主・義久の晩年の苦悩、苦痛、懊悩は全て秀吉から端を発している。

弟の一人、祁答院領主・歳久は「朝鮮の役」に反対して起きた「梅北一揆(1592年)」の黒幕として、秀吉の命令で処刑されてます。
(※梅北一揆については、最新の研究で「地頭(梅北氏は国人出身の地頭)の領土問題がある」と指摘されています)

慶長3年(1598年)その秀吉が死んだ。

兄の義久は、秀吉の死を待ち焦がれたかのように、罪人として処刑された弟の菩提を弔っている(現・平松神社)

我慢に我慢を重ねていた義久は「庄内の乱(1599~1600年3月)」で遂にブチ切れ、当主・義弘が出した出陣命令を本国で握りつぶした。


当主・義弘:にーちゃん,気持ち判るよ!でも上方はケツにも足元にも火が着いてるんだよ~頼むから兵士送って~~~

前当主・義久:絶・対・イ・ヤ!徳川とか奉行衆とか島津には関係ない!

次期当主・忠恒:ちーーっす!自分,内府さまに謹慎しろって言われてるんス ( ゚Д゚)y─┛~~


義弘の息子で、後の初代・薩摩藩主となる忠恒(ただつね)は、実はシッカリ家康とやりとりしてた。

家康:忠恒ちゃん、今回(庄内の乱)は大変だったね~国許が落ち着いたら伏見で会おうね~^-^待ってるからね~

忠恒:マジっすか?謹慎終ったら自分、ぜってー行くんで、いろいろ頼んまス


元々揉める要素を抱えていた島津家は、さらに秀吉が引っかき回したせいで、完全にグダグダになっていた。

さて、経緯はともかく、島津本軍は「一部・義弘大好き家臣」を除き、薩摩に残った。

島津本軍がいるため、島津と揉めた加藤清正も肥後本国で足止め。


そこで困ったのが小西行長だ・・・加藤と島津が残るから、自分も本国をカラにできなくなった。

小西は肝心要の「関が原の戦い」で、常日頃鍛えた精鋭たちを、万が一に備え肥後に留守として残す羽目になってしまった。

関が原本戦で、小西の活躍がイマイチ地味なのは、小西の指揮に問題があったのではなく、頭数を揃えるために急遽集めた傭兵の混成部隊だったからです。

小早川の裏切り・さらに大谷軍が崩れたのを見て、傭兵はサササ~と戦場から逃げてしまい、小西は自軍を支えることが不可能になった。

でもって、石田三成です^^

島津軍が来たとき、兵数の少なさに島津を軽んじてしまう失敗を犯します。

三成が奉行を退いたのは、慶長4年(1599年)閏3月。

「庄内の乱」は同年6月。ちょうど境目。

奉行時代なら、大小細かな報告が全て手許に来ます。

でも隠居しちゃえば、情報は味方からしか入りません。

島津と加藤が「庄内の乱」で揉めたことを、ひょっとしたら三成は知らずにいたんではないでしょうか?

家康の「庄内の乱」に対する裁定は、島津家と反乱おこした伊集院へのもの。

加藤清正には触れていないので「公式発表がない+奉行でもない」だから島津の内部事情は手に入らない。



石田三成~

三成の島津の兵力に対するガッカリ具合から察するに、かなり九州の情勢に疎くなってる感じです。

「関が原の戦い」の発端は「会津(上杉)征伐」で、そのとき家康から動員かかったのがスライド~東軍になります。

つまり「肥後(九州)を本国にする加藤清正が、「会津征伐(東北)」で動員命令が下らなくても不自然じゃないの。

だから、島津家内部の意見が割れて、加藤や回り回って小西にまで波及しているとは気づいてなかった。

あるいは知った時には手遅れだったかの、どちらかでしょう。



島津が来ると聞いて三成の脳内算盤が弾いたのは、奉行時代の朝鮮の役での島津の動員兵力1万。

まぁ、それは元から無茶な数だし、本国カラにはできないし~

まぁ2~3千は行くか?な~んて甘い予想してたんだろうなぁ(6 ̄ ・ ̄)ポリポリ 

「庄内の乱」の時に三成が奉行のままだったら、加藤清正が伊集院へ食糧支援したことに対し黙ってはいないだろう。

清正を処分し島津と関係を深めるか?はたまた清正との仲直りのチャンスとするか?

いずれにせよ大事な切所に関われず、三成は甘い予想のまま運命の関が原を迎えてしまったのだった。

さて、次回は島津氏5・初代薩摩藩主についてです。それは またの話^-^
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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