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【相良頼房40_法廷闘争?】

今回は(池田こういち著『肥後 相良一族』&人吉市史)を参考資料とさせて頂きました。

深水頼蔵が石田三成へ訴状を出した正確な時期は解ってません。
慶長元年(1596)年10月13日に深水頼蔵が相良家を出奔し、加藤清正に匿ってもらってます。
実父・織部も息子に続き出奔し、二人を追って出奔しようとした深水一族73人を犬童頼兄がバッサリ成敗
(詳細経過は前回既出)
それを憤った深水頼蔵が公儀(この場合は豊臣政権)へ訴状を出した。

これだけ書くと「犬童DQN」って思われるかもですが、戦国も江戸期も出奔(脱藩)は基本許されることじゃありません。
だって主家の内部+軍事情報を抱えてるし、郎党を引き連れていれば主家の兵力減にもなります。

だから勝手に出奔の誰かさんは追手や刺客を放たれたり、某氏は「奉公構え」くらったりと、それなりの報復を受けるものなんです。
加藤清正の保護下にある頼蔵・織部親子が無事な代わりに、相良領内に残る深水一族にトバッチリが来るのは政争の常。
とにかく訴状は慶長元年(1596)10月13日以降で、第二次朝鮮の役出兵までの間に起きたんです。

石田三成は訴状の確認の為に犬童頼兄を召して、深水頼蔵と共に詰問した。
頼兄は「深水一族への処断は、法に照らしてなされるもので、個人の勝手な判断で行ったものではない。
主君の命により成したものである。
と述べると、主君・相良頼房からの指令が書かれた文書を提出した。
頼蔵「ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!」

実は・・・初めのころ、相良頼房と犬童頼兄の衆道関係を疑いました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ
(頼兄は美形で寺の稚児上がりの経歴なんで、つい腐女的発想を・・・ゴニョゴニョ)

主君・頼房にしてみれば「アタシ(深水一族)と、あの女(犬童一族)のドッチを取るのよ!」と究極の選択を迫られた状態なわけで、頼房「魯鈍ちゃんより、仕事の出来る方が (・∀・)イイ!!」となるのは当然の帰結。
亡き深水宗芳が生きていれば、頼房も頼兄だけを選ぶことは無いだろうし、そもそも両派の争いは起きてないだろう。

なんとなくなんだけど、深水頼蔵は深水一族の過去の功績から「自分は大丈夫」って、根拠レスな思い込みがあったんじゃないだろうか^^;
で、不利を悟った頼蔵が何をしたかと言うと・・・法廷からトンズラ。・゚・(ノ∀`)σ・゚・。アヒャヒャ

妄想1:三成・頼兄の前を頼蔵が脱兎の如く逃走~三成・頼兄 ( ゚д゚)ぽかーん
妄想2:頼蔵が「イテテ~持病の癪が・・・ちと休憩」と言って退出遁走

具体的に、どうやってトンズラしたか記録に残ってれば面白かったのに~
頼蔵がトンズラしたと知った時の三成の顔を見て見たい(大爆)

そして改めて三成は頼兄に、頼蔵追捕の許可状を与えたそうだ。
その追手は山井五郎により殺害され、深水頼蔵は事無きを得た。
「石田三成が捕縛しようとした」と聞いて、加藤清正は増々意地になってしまったらしい。
深水頼蔵を匿った(伏見屋敷か?)
深水一族と犬童一族の争いが、加藤清正と石田三成との争いにまで発展?それは またの話^-^
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

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筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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