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【相良頼房35_梅北一揆3・救援】

一揆は僅か3日で鎮圧され、文禄元年(1592)年6月17日に討たれたことになっている島津家臣で首謀者の梅北国兼。

だが研究が進み、一揆勢は半月間粘り、別働隊もいたらしいことが解って来た。
どうやら一揆を小規模だったかのように、為政者(島津と豊臣政権の両方)が情報操作していたらしい。
だから一揆が本当に鎮圧された期日は、明確にはなっていない。

生前のアグレッシブ梅北は「一揆への加担」を呼びかける檄文を _φ( ̄ー ̄ )カキカキ 送り付け、
それは、我らが相良家にも届いていた。

文禄元年(1592)年といえば「文禄の役(第一次朝鮮の役)」の真っ最中で、
当主である相良頼房も加藤清正旗下で戦っていた。
ちなみに頼房20歳~~シーマンズの影響か、すっかり猛将タイプに仕上がってます。∴・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

檄文の内容も手紙が届いた期日も不明だが、要するに「佐敷城に籠城する一揆勢へ加勢して欲しい。」ってことらしい。
頼房の亡き父・義陽が島津に降伏してから九州の役までの短い期間だが、阿蘇合戦や豊後侵攻と、共に轡を並べて戦場に出て、同じ釜の飯を食って来た。
まぁ島津から見て相良家に対し ♪仲間( ̄▽)人(▽ ̄)仲間♪意識があったのだろう。

なんか薩摩隼人らしい感覚~~~実際に家臣間でも交流があっても不思議では無い。
さがらんとシーマンズは ♪お隣さん( ̄▽)人(▽ ̄)御近所さん♪ だもんね^^b

アテにされて困惑したのは相良家だ。首脳陣は朝鮮に出払ってる。
とにかく台芳尼(義陽正室・千代菊)の元で評議が持たれた。

このとき「梅北の主張にも一理ある」との意見も出たそうだ
う~~~~~~~ん、檄文的招待状が残っていれば、梅北の諸説ある一揆の動機が分かったのに~(惜しい!
留守居の家臣らが同調しかけるってことは、やっぱ領土問題が動機かなぁ(6 ̄・ ̄)ポリポリ

事の重大さを忘れ、梅北の文に流れされそうになっている評議の空気に、重臣・犬童休矣が静かに、だがハッキリと意見を述べた。

犬童殿曰く「殿は太閤の命により清正殿に属し、遠く朝鮮で戦っておられる。斯様(かよう)な時に梅北如き凶徒に与(くみ)して、太閤・清正殿に背(そむ)く事が出来ようか( ー`дー´) キリッ
いかなる理由でも一揆は御法度・大罪!同情してどーすんだ!
おのれら殿の留守に御家を危うくする気か?!シャキっとせんか~い!! 

犬童の言葉に \(////o////)ノ「ハッ」と一座は冷静さを取り戻した。
犬童休矣は、士分30余名で(一揆鎮圧の方の)救援に向かった。((((((((((っ´▽`)っ

そしてこの士分の中に菱刈源兵衛の嫡男・将監が初陣(戦場デヴュー)してます。
ん?菱刈源兵衛を覚えて無い?^-^

ほら、豊後侵攻の撤退の時に、「御家存続が決定して、島津との盟約を破棄して人吉へ帰ろうとする相良'zの中で」「武士の約定を果たしたい~って妻子を人吉に残して一人だけ島津家に残った勇者です( ̄∀ ̄*)ポワ~ン」
人吉に残ってた菱刈の幼かった嫡男が、初陣を務めるまでに成長したんです( ̄∀ ̄*)ポワ~ン

ちなみに将監クンは江戸期に相良家(二代目藩主時代)の家老になります~~~( ̄∀ ̄*)ポワ~ン
大隅国人の雄であった菱刈の血(庶流だけど)は、相良家で脈々と受け継がれてます( ̄∀ ̄*)ポワ~ン

さて、佐敷城の梅北の方に話を戻そう。
6月14日に蜂起した一揆勢は、肥後葦北郡・佐敷城を攻撃。

さらに八代の城をも陥れんと協議して、田尻(梅北の同調者)は松橋(まつばせ)を放火。
小川に至って八代の城へ立て籠らんとする処に、その辺りの松羅筑前という者が、田尻を始め、その子・荒次郎・荒五郎、並びに従う者100余人を討ち果たした。
松羅はすぐに八代の城に入って堅く守った為、田尻の残党は佐敷城へ引き退かんとした。
それを松羅の人数が追い掛け、肥後国・赤松太郎と云う処で悉(ことごと)く打ち殺す。
(出典・征韓録~読みやすいように補正あり~以下出典は略)

別働隊って、この田尻のことかな?( ̄・ ̄)じー 相良の動きと合わせると、他にもいたっぽい感じです。

梅北国兼は佐敷(さじき)城に在って、家臣の山蜘(やまくも)という天性の狼藉者を近郷へ遣わし、(一揆の)賛同者を募らせる。
佐敷住人の境善左衛門・安田弥左衛門は国兼の無勢を悟り、若き女房らに酒などを持たせて、炎天の苦労を慰めさせようとする。(←つまり罠)

国兼はこれを容れて終夜の宴を開き、数盃の興により忽(たちま)ち危難を忘れた。
すると境・安田は頃合いを見て相図の声を発すると、隠し置いていた者らが四方より集まり、遂に国兼の首を斬り、与した者達も共に討ち果たした。
ほんの数杯で興に乗って油断するって、どんだけデカい杯だったんだ ∴・…,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

『梅北一揆始末書』の記録だと、また少し違います。
梅北国兼一党が6月15日、佐敷城へ名護屋よりの御意(ぎょい)として城の受け取りを迫ったものの、安田弥右衛門ら留守居(住人ではなく清正家臣になってる)が「この城は肥後守(清正)の端城であるから、隈本城の留守居衆からの書状を持参せよ」との返答。
これに当地の町人・庄屋・百姓らが加担して城へ攻め入り、留守居衆の妻子らを人質にとって田浦付近を封鎖したそうです。
んで、酒と鮒寿司(って戦国時代にあったっけ?)で油断させて以下同文。

注意しなければならないのは、これは家臣が一揆しちゃって超迷惑だった島津側の記録だってことです。
だから梅北のアッサリ討たれるカッコ悪い最期は、額面通りに受け止めることは出来ません。
とにかく、犬童らが一揆鎮圧の応援に出陣した時、すでに梅北は討たれた後だったのだが それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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