肥前千葉氏_6【肥前今川ボッシュート!】
肥前千葉氏の系譜は嫡流・胤鎮系譜と、大内擁立・胤紹(胤鎮弟)系譜の二つに分かれた。
だが大内擁立の胤紹は、兄胤鎮によって嫡男(政胤)と共に討たれてしまい、肥前支配を目論む大内の思惑は外れた。
胤鎮⇒元胤と肥前千葉家は隆盛を誇ったが9代目元胤が男子のないまま急死。
胤鎮三男の教胤が14歳の若さで家督を継ぐ。
むろんオムロン(古っ)噂は大内が流した風聞だ。
だが千葉教胤15歳の補佐をする執権・中村胤頼は器量がイマイチっぽ~( ̄ω ̄A;アセアセ
日没となり双方引き上げ~~~いったん和睦しました。
この年は災害が多く、まず6月18日から雨が一滴も降らなくなったんです。
7月29日に今度は大風で、さらの大潮となって肥前の田畑が浸水。
南海より三里(約12km)内陸まで浸水し、船で往還するほとの被害が発生しました。
今川と千葉が和睦したのは、災害が起きて戦どころじゃなかったからだと思います。
大内が代替わりしても、一度肥前に撒かれた「不和の種」が消えるわけではありません。
戦国がいつから始まるかは今でも揉めてるし、いつで終わったかも研究者によってバラバラです^^;
地方は中央の動きに関係なく家督で揉めてグダグダしてますから。
ですがハッキリ言えるのは「応仁の乱」の頃には、室町幕府の力は既に衰えている。ということです。
なぜなら各地である家督や領地境界を巡る揉め事は、本来なら室町幕府の裁定に従い治まるべき種類の事柄だからです。
現に千葉も今川も「この争いを幕府に訴状して裁決してもらおう」なんてチラっとも考えてません,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
特に肥前千葉は室町幕府に遺恨があります。
大内擁立の胤紹に家督を簒奪された時(胤鎮当主時代)、
あろうことか室町幕府が大内の働きかけに迎合して、嫡流より家督簒奪者を正統と相続を認めたんです。
あろうことか室町幕府が大内の働きかけに迎合して、嫡流より家督簒奪者を正統と相続を認めたんです。
数度のリベンジの結果、家督を取り戻した肥前千葉家の心は室町幕府から離れてしまっています。
室町幕府はアテにならない。しょせん自分を守るのは自分しかないのだ・・・と。
大内は肥前今川と肥前千葉が争うのを「高みの見物」と洒落込みたかったが、あんまりノンビリもしてられなかったようです( ̄ω ̄A;アセアセ
大内は中央に近く、なまじ力もあるだけに「応仁の乱」に巻き込まれた^^;
大内にとって引くわけにいかないのは、家督を狙う大内教幸(政弘の叔父)が東軍に加担してることです。
(当主・政弘は西軍)
(当主・政弘は西軍)
中央は中央で揉めてるので、お蔭で肥前は他所から介入を受ける事なく、伸び伸び(?)揉めることが出来た^^;
同年の6月、肥前今川は(一応)九州探題・渋川に援軍を乞い、佐賀領民も味方につけた。
6月20日~今川勢が千葉小城境の民家を放火。
援軍に来てた渋川勢も散り散りに逃げちゃった(使えない九州探題)
応仁の乱が無ければ大内が介入してただろう。
大内の計算は狂った。
今川と千葉を争わせ「漁夫の利」を得るはずが、画策した本人は死亡し代替わり。
それはともかく「応仁の乱」で身動きとれなくなったのが不味かった( ̄ω ̄A;アセアセ
さらに大内にとって面倒なのは、復権を狙う少弐が東軍に通じて挙兵したことだ。
一度は滅亡寸前まで少弐を追い詰めた大内だったが、仏心を出して和睦したのが今になって裏目に出たんです。
大内家督を狙う叔父・Gのように叩き潰しても何処からともなく復活するシツコイ少弐。
一つ一つは大内の屋台骨を揺るがすほどの出来事ではないが、煩わしいったらありゃしない!!
戦国の女神が微笑むのは大内か、少弐か、肥前千葉か?それは・またの話 by^-^sio
スポンサーサイト