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【相良頼房32_朝鮮の役4・激戦】

文禄元年(1592)・・・「破竹の勢い」と言えば聞こえはいいが、クールに言えば「前線が伸びきっている状態」~~日本軍^^;

朝鮮国王は首都ソウルを捨てて「オランカイ(中国吉林省東部・朝鮮と明との国境)」へ脱出した。
勢いづいた加藤清正率いる一番隊も、オランカイまで進軍。
相良頼房も国境であるアンヘン(安辺)に至った。

そこで相良頼房は、大将である加藤清正に安辺城の在番を命じられる。
だが、この年の暮れに明軍からの援軍を得た、朝鮮側の反撃が始まった。

それは「黒山の人だかり」とか「雲霞の如く」という喩えのまんま。
ものすごい兵数で「野鳥の会メンバーでもカウント不可」な件~
それは全て騎馬武者で歩兵は一人もいなかったそうだ。

野も山も川も海も、とにかく見渡す限り騎馬武者で埋まった。
その余りの多さに「チキンハートな日本軍」が潰走したらしい。

このとき、振る舞い悪く退却したものは横目役(軍艦)が秀吉殿下に報告するであろうから、
帰朝の後にはたぶん改易(所領没収)されるであろう。

(南藤曼綿録より~ただし誰が逃げたかは記載なし)(江戸期に書かれてるので「秀吉」と書いてるんです)

相良が守る安辺城も朝鮮軍+明軍に囲まれた Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ

このとき家老、相良兵部(頼兄)をはじめ老臣たちは
「日本軍の大方が都に引き上げた今、相良氏の軍勢の戦力武器弾薬は敵の百分の一にも満たない。
これではとても永々の籠城はできないので、今のうちにどこか〔敵の包囲網の〕一ヶ所を打ち破って都へ引き返してはどうか」と進言した。

主君・相良頼房は
「皆の申すことはもっともである。しかしよく考えてみよ。
清正が申されたのは[この城は国境の重要なところである。相良氏は古風な家で万事律儀な家なので在番を命じると云われた]ので「ご安心くださいm(_ _)m」と申し上げたのだ。
侍が侍に対して堅く約束したのを、朝鮮人が蜂起したからといって、城を空けて退却することができようか。
自分はこのたびの陣触(出陣の命)の朱印状を拝見してからは、朝鮮国の土になるつもりで渡海してきたのであり、それは摩利支天もご覧になっているであろう。
番城を命じた清正方から伝令が来るまではこの城を出てはいけない( ー`дー´) キリッ


老臣たちも主君・頼房の言葉を聞き「至極尤ものご意見である、退却するのではなく城を守って戦うのだ!ファイトーー!( ゜ロ゜)乂(゜ロ゜ )イッパーーツ!!」
と全軍に命令を出したので、城兵たちは活気づいた。

決意を述べた頼房が敵情を | 城壁 |_ ̄)じー と見て考えると、再び口を開いた。

頼房「歩行の武者は一人いない、それに騎馬武者は各人それぞれの兵糧を自分の馬の鞍につけているようだ。(手持ちの糧秣だけなので)この様子では長陣はできないだろう、時間を見計らって打って出、敵陣を押し潰してしまえ! ( ̄△ ̄)6m ビシ★~
弱冠二十にして、この胆力・戦況の判断力。
さすが、小大名といえども「関ヶ原」を生き残る当主だけのことはありまつ (*´艸`)萌~
10年早く生まれてダディ義陽を支えて欲しかったかも (´д` ;)

人物・相良頼房
幸麿さん作画:相良頼房イメージ画像

頼房の言葉を受けて、攻撃を一日延期したところ、二日目に敵軍が大太鼓に合わせて雪崩を打って攻めかかってきた。
藩主頼房「いまだ、打って出よ!( ̄△ ̄)6m
と命令をくだし、城兵は鉄砲を撃ちかけ突撃した。

敵は馬上で半弓を射ること、とても人間業と思えない早さだった。
矢を140・150~200本も背負い、雨が降るように射続けてくる。

それに対抗するため相良は馬を降り、徒歩で彼らのの乗った馬を切り、落馬した敵兵を撫で斬りにした。
敵兵の数が半端ないので首は取らず、とにかく力の続く限り切りまくった。
その奮戦ぶりに、10町(1町=109m)の間は死者だらけになった程であった。

だが敵兵力がケタ外れだったので、切っても切っても減らない。
やむなく相良の人数をまとめて城内にひきあげた。

その夜、敵軍は大鐘を鳴らして騒ぎ立てたが、翌早朝見てみると、大軍はみなオランカイへ引き払っていた。
来るのも去るのも、あっという間の明軍。

実は清正が在番していた城も、安辺城と同日に包囲されてたんです。
ですが清正が大軍をもって即時に追い払ったので、こっちも同日にオランカイに撤退しています。

援軍の明兵にとっては朝鮮国土が蹂躙されていても「所詮、他人事」なのでしょう。
頼房が気付いたように、腰兵糧(携帯用食料)しか持参してないということは「はなから本腰入れての援軍では無い」ってこと。
日本軍が思ってたより手ごわかったので、自軍の損害が惜しくなったのもあるでしょうね^^;


清正が言った
「私は大きな間違いをした、この辺りでさえこのように苦戦するのであれば、相良氏が在番する安辺は三日路奥にあり、オランカイとの境だからたぶん戦死したであろう。
我らの組中であり、また「万事後見せよ」と主君秀吉から命ぜられていたのに、やすやすと討死させては申し開きのしようもない。

大事な国境の城だから自分が在城するなり、大将クラス四・五人も差し置くべきところを相良殿一人に任せたことは、悔やんでも悔やみきれない。( ̄  ̄)トオイメ。。 
しかしながら過ぎたことをくよくよしても仕方がない。今はせめて相良殿の討死の場を見届けよう((((((((((っ´へ`)っ」

男・清正の想像はヒートアップ、すっかり討死扱いの相良頼房∴・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

清正が安辺に着いてみると、頼房は無事で城を堅固に守っていた。
清正「(ノ´▽`)ノオオオオッ! 頼房の手を取り、涙ながらに「朝鮮人蜂起によって諸方で苦戦していると聞き、
きっと頼房公も討死したのではないかと思っていたが無事で何より、死者が蘇ったような気がする。」


勝手に死んだと思い込んだ上に、ゾンビにされた・・・∴・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
清正って、けっこう面白い性格なんだなぁ^^;
 
「相良氏は古風な家柄とは聞いていたが、律儀そのものの働きで、しばらくとはいえ、討死したのではないかと考えたのが恥ずかしい」
と言い、両人は同道して都(漢城)を後にした。

時に相良頼房二十歳。
報告を聞いた秀吉は感激し、頼房に奉書を与えた。

頼房の死後、老臣たちは頼房を「まれに見る大剛の大将だった」と評し、朝鮮の役でのことを「一代のなかで、一番にとりあげるべきこと」と言っている。

さて、頼房の第一次朝鮮の役は終わった。
だが留守の間に肥後ではトンデモナイ事件が起きていたのだが それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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