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【相良頼房20_アウグスティヌス~天草国人一揆1】

天草一揆というと「島原(と天草)の乱」が圧倒的に有名で、天正年間に起きた「天草国人一揆」を知る人は少ない。
知ってるのは戦国マニアくらいで、それでもローカル戦史ゆえに中身まで調べる人は少ない^^;
この合戦に相良家はチラとも出て来ないのだが、全盛期相良氏の配下だった天草5人衆、その後を辿りたいと思う。

天草5人衆は相良家が島津に降伏するのに前後して、島津配下となった。
その後「九州の役」で関白に降伏し、領地安堵される。

一番リアクションが早かったのは天草氏で、秋月(人名)降伏の4月に筑前・秋月(地名)へ赴き、いち早く秀吉に降っている。
相良が天草諸島に介入したのは16代義滋からで、その相良家も20代頼房の代。
天草5人衆も世代交代し天正16(1588)年現在は、志岐麟泉、天草種元、大矢野種基、上津浦種直、栖本親高の5人だった。

天正16(1588)年「肥後国人一揆」の残党も鎮圧され、閏5月14日に責を問われた佐々成政が切腹。
天草5人衆は「肥後国人一揆不参加」だったので、引き続き領地安堵で関白・秀吉から朱印状ゲッツ(* ̄・ ̄*)Vブイ

一方、同年9月に肥後の国分けが決定。

相良家~肥後一揆における島津進軍妨害は不問。引き続き球磨2万石安堵。
加藤清正~肥後北半国19万5千石拝領。
小西行長~肥後南半国(宇土、益城、八代)約20万石拝領。

まったくウィキペディアときたら、どっちも半国、半国と相良家をカウントしてな・・ゴニョゴニョ

でもって大雑把なウィキペディアには記述されてないのだが、

実は小西領であるはずの八代の一部が加藤清正差配になっている
加藤清正差配の八代とは、旧相良家臣八代衆のことです~

亡き相良義陽が降伏した時に八代は島津家へ割譲され、八代衆は島津配下となった。
島津が秀吉に降伏後~肥後国人一揆までの間「八代13人衆」が、どこに帰属していたかは不明。
(普通に考えれば「佐々成政預かり」かなぁ)

9月の朱印状によると「八代13人衆(正しくは14人)」&「八代30人衆」が加藤清正幕下。

八代13人衆は八代の旧相良家老臣(奉行クラス)連中で固められ合計890石。
八代30人衆は葦北などの連中(奉行ほどの身分では無い)が含まれ併せて合計750石。
合計で1640石。

八代が小西領でありながら、旧相良家臣は加藤清正幕下で「変則的な飛び地」状態だった。
この複雑な状況にした秀吉の考えは「清正を島津の抑え」ってことかなぁ~(-ω-;)ウーン

佐々成政以降の国分けで、相良家の気苦労が倍増したのは想像に難くない^^;
超負けず嫌いの若き猛虎・加藤清正は、小西行長にライバル意識ムキ出しで噛みついてくる。
小西と加藤、双方に気配り+御機嫌損ねた島津家とも融和に務め、と「小国の悲哀」が漂う。

トラブルの記録が無いとことみると、相良家は「まだ勝手が慣れぬ小国外交をソツなく熟してた模様」



さて小西行長だが、一番知られている経歴はキリシタン大名ってことで、洗礼名は記事タイトルのアウグスティヌス。

実は小西行長が元宇喜多家臣であるという経歴は意外に知られていない。
さらに宇喜多秀家公・元服のおりに「髪結役」だったのは、もっと知られてない^^;
秀吉に見いだされ宇喜多家からヘッドハンティングの直参。
元家臣ってことで秀家公の髪結役になった。

それと加藤清正が小西に噛みつく時に「薬屋!」と罵るのも、全くの間違いではない。
和泉国堺の薬を主に扱う商人である小西隆佐の次男として京都で生まれたからです。
行長の父・小西隆佐を最初に見出したのは宇喜多直家のようです。(商いで宇喜多家にも出入りしてた)

つまり小西家は「商人⇒武士」となった家。
だからといって小西家の武勇は侮れるものでは無い。
九州の関ヶ原の一つ「宇土城攻防戦」で、加藤清正は宇土城を落とすことは遂に出来なかった。
(主戦場の関ヶ原が敗れたので宇土城は降伏開城した)

相手の武勇にケチをつけられないとなったら、悪口は「相手の出自」。
「お前のカァチャン、出○ソ」レベルの因縁しかない^^;

さらに小西行長の娘は対馬の宗義智に嫁いでいる(関ヶ原後に離縁)。
その宗義智は関白から「李氏朝鮮を服属させるように(天正15(1587)年ころ)」との命令を受けており、
義調(宗義智の養父ともあるが詳細不明)、小西行長、島井宗室らと共に交渉を始めている(ただし捗々しくない)

つまり秀吉が肥後に小西を配したのは「近い将来ある唐入り」を考慮してのことだ。
天草国人一揆は、そういう秀吉の思惑と政治背景が絡んだ陰謀だったのではないだろうか?

天正17(1589)年の秋、小西行長は宇土城の補修を行っていた。
当時の宇土城は中世つまり古いタイプの城で、要害など諸事不便~手を入れる必要があったんです。

小西行長は天草本渡城主・天草種元と志岐城主・志岐麟泉に普請を手伝うよう遣いを出した。


管理人の中で、ここがひっかかった。
亡き肥後国主たる佐々成政が、肥後国人たちに検地~もしくは城普請~って言うなら解る。
なぜなら佐々は肥後国人を家臣化しようといていたから。
(失敗して一揆になった)

だが天草地方は小西行長の領地ではない。
それとも天草5人衆は小西の与力だったのかな?
位置的に与力になっても不思議ではないから、記述が無いだけで、そうだったのかもしれない。

肝心なのは天草5人衆も、肥後国人たちのように「秀吉から領地安堵の朱印状」を貰っている、という点だ
領主の立場ですらない小西が、天草5人衆に「普請諸役を求めても」拒否されるのは火を見るより明らかだ。

賢い小西行長が「無茶振りした」のは、「天草5人衆を成敗し天草領を己が物にする」ためではないのか
「入府早々で一揆が起きた」のは「佐々も小西も変わらない」「自力で鎮圧できなかった」のも同じだ。
「だが佐々は切腹」で、「小西は処断されていない」。
(もっとも肥後国人一揆は政治的時期が激マズイというのが大きい)

それは秀吉にとって「唐入り」で小西が必要な人材であるというだけでない。
渡海時における要衝地・天草諸島を、田舎国人が分割統治していては不便極まりない。

何より天草5人衆と秀吉は「秀吉の意図を理解するだけの人間関係がない」
「唐入り」を命じても、天草衆は(@@)は目をパチクリさせるだろう。

天草5人衆に難癖つけて領地召し上げ⇒小西領に組み入れ来る唐入りに備える
天草国人一揆こそが「秀吉と、その意を汲んだアウグスティヌス・小西」の仕組んだ陰謀ではないだろうか?

だが両人(天草と志岐)これ(宇土城の普請手伝いという小西の申し出)を嘲り
「一昨年、関白殿下が薩摩へ御動座の際に、我らは筑前秋月へ向いすぐさま拝褐し、殿下が御帰洛の砌(みぎり)に御朱印を賜っております。
故に公儀(豊臣政権)の御普請であれば小西殿の下知に従いまするが、小西殿の私的な普請は承りかねます。
また我らとて、相応の疲城とはいえ城持ちですので、修理経営に領内の百姓らを貸す暇もないのです」と返答した。

小西は天草と志岐の返答に憤り、秀吉へ訴える(この辺りが佐々と違い如才ない)
関白・秀吉「左様な奴らは誅伐を加えよ」と下知した
大義名分を得たアウグスティヌスは、同じキリシタンである天草5人衆の成敗を開始るすのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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