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【相良頼房18_終息~肥後国人一揆5】

茶臼山(現・熊本城本丸跡)での戦いで一揆勢に勝利した佐々成政。
この戦いで甲斐宗立(亡き宗運の息子)も敗死し、甲斐家は主家・阿蘇氏に先立ち滅亡した。
だが一揆勢全てを殲滅したわけではなく、未だ籠城している山鹿(城村)城に対する付城も兵糧が尽きかけていた。

佐々成政は兵糧を運びに動けず、柳川の立花統虎(むねとら・宗茂のこと)へ援けを頼み、
更に関白・秀吉へも一揆の蜂起を報告した。(内緒で治めるられる段階ではない)


立花統虎は柳川に入部したばかりであるが、人数を集めて武士200、雑兵1800で肥後境まで出陣した。
報告を聞いた関白・秀吉「急ぎ四国、中国、九州の諸将を一揆退治に差し向けよ!」と命令。

四国衆は浅野長政、安国寺恵瓊、
九州衆は小早川隆景、小早川秀包(この頃は隆景の養子)、立花統虎、高橋統増(立花の実弟)
その他近国の諸氏が肥後へ出陣する。


軍奉行は中津の黒田考高(隠居前で現役)、小倉の毛利勝信(大坂の陣の勝永ダディ)である。
ちなみに龍造寺政家は病であり、名代として江上家清、龍造寺家晴が佐嘉勢を率いて出陣した。


9月7日~立花統虎は佐々成政の付城へ兵糧を運び入れようとしたが、
敵城より有働志摩守勢が討ち出て、永野原の道を通る立花勢を追い掛け、立花統虎へ襲い掛かる。

このとき立花勢は、内十但馬守らが立花統虎より先に進み過ぎ、
小野和泉守(鎮幸)が後ろ過ぎてまだ来ていなかったのであるが、内十但馬らが引き返し、小野和泉らが追い付くと、有働は前後より挟撃される形になり、討ち負けて逃散した。


・・・・内十但馬守って誰?!!
答え:立花四天王・十時連貞の一族です~十時但馬は「朝鮮の役」にも従軍してます^-^

立花統虎は手負いを援けながら、既に南関(玉名郡)にありながらも引き返したが、これに大田黒城の有働左近将監が城から打って出て矢を射掛ける。

統虎は油布上総守(由布惟信=立花四天王筆頭)らに下知して300人でこれを追い払うと、
そのまま城へ切り上がり、その日の酉の刻(pm18:00頃)に城を攻め落とした。


城将・大知越前守は立花家臣・池辺龍右衛門に組み伏せられ討たれた。
立花勢は勝ち鬨を上げて北関(国境)へ帰陣した。


11月下旬、一揆の棟梁・隈部親泰はなおも山鹿へ籠城していたが、
浅野長政、安国寺恵瓊が「怨敵の思いを翻して開城降参されれば、我らの計らいを以って上に取りなし、本領安堵させましょう」
と方便(テキトーな事)を述べると、


隈部親泰はすぐさま城を明け渡し、有働兼元、有働志摩守、北里三河守、北里式部少輔ら4人と降人となった。
そして主従80余人を従えて浅野・安国寺と共に上洛しようとするが、
豊前の小倉にて明日出船という晩、毛利壱岐守(勝信)の家臣らに取り囲まれ、一人残らず討ち果たされた。


また、隈部親永、内空閑鎮房、有働一族10余人はみな柳川城へ入れられ、立花統虎に預け置かれた。

最終的に一揆勢は、ことごとく殺された。
12月に秀吉は朝廷へ一揆鎮圧の報告をしているが、実際には残党が各地におり、肥後は不穏な状態が続いています。

で相良家ですが実は肥後一揆で、とんでもないドジをやらかすのですが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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