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【相良頼房15_勃発・肥後国人一揆2】

相良家文書は未確認なんだけど、とりあえず今まで調べた段階では、肥後国人一揆に関し相良側の記録には殆ど記述が無い。
てことで今回のメイン資料は「北肥戦誌」なのだが、この史書は江戸期に佐賀藩士が記したものなので、
肥後に関しては、時々??なミスがあるので管理人補正入れつつアップします。
見落としあったら御容赦願いますm(_ _)m

肥後国人一揆を理解するには、国人全般の知識がないと「秀吉陰謀説」に飛びついてしまうだろう。

佐々成政が国人に検地を強制しようとした理由は、超単純だと管理人は推測している。

理由1)佐々成政には蔵入地(領主個人が治める土地)が無かった
ただし全く無いわけではない、「蔵入地っぽい?候補地」はある~
それは秀吉が肥後人から召し上げた土地だ。(それらを全て佐々が貰えた、と過程する)

大まかな没収リスト:島津からは旧相良領の八代郡、相良家からは芦北郡、阿蘇氏からは本領4000町(矢部に300町残る)
前回「検地する・しない」で揉めた隈部親永は、約半分の800町に減らされた。(それでも肥後国人の中ではダントツ)
ジグソーパズルかパッチワークか、佐々の手元に残るのはツギハギ飛び地だらけの土地ばかり。

この状態から佐々本人の取り分(蔵入地)と、佐々家臣団へ配分するというのはキツイ。
それに入府早々というのは何かと金がかかる、最初の数年間は赤字経営を覚悟しないければならない。
毎年入る(であろう)租税の金額を掌握したい、と思うのは当然のことだろう。

理由2)佐々成政は肥後国全体の石高(実態)を知らなかった(じゃないかなぁ~と推測^^
例えば筑前なら「秋月氏」という勢力がいた。
筑前の新たな支配者は、秋月家の残した土地台帳や検地記録をベースにすれば当面は事足りる。

ところが肥後には一国を統一する者が出て来なかったため、土地台帳は50余人いたという肥後国人が個々に抑えている状態だ。
これでは肥後国全体の総石高が解らない。(あっちを足してこっちを足して・あれれ??聞いてた石高超えた~ホエ~てな事態が発生する)

理由3)佐々の都合にお構いなく、関白からは実務者レベルで粛々と「肥後一国分の軍役・諸役が課せられる~
佐々は勤めを果たす為に、その軍役・諸役を各国人に割り振らねばならない。
国人から不満が出ないように振り分けるには、やはり前もって検地して石高を知る必要があるんです。

理由4)肥後を兵農分離しようとした。

兵農分離とは国人の独立を認めない。
家臣になるか、ならないか、YESかNOの二択しかない。

というのが管理人の推測。

一方の肥後国人たちは「関白から朱印状を拝領している」ので、佐々の家臣になった覚えはサラサラ無い。
江戸期風に言うと直参のつもり。
関白が求めて来たら軍役・諸役を果たさねばならないが、佐々が軍役ウンヌン~とゴチャゴチャ言ってきても、家臣ではないので「何としても果たさなければならない義務」とは思っていない~

満座の席で隈部に「検地は御免蒙るo( ̄ー ̄θ★ケリッ」と一蹴された佐々成政。

佐々は隈部が嫡男・親泰を不仲だと知ると、親泰の元へ密使を送った。
佐々の密使「父を殺して味方に参じれば隈部本領を保証する」と伝える。

これに隈部親泰は弟の有働兼許・内空閑鎮房を招いて相談した。
「如何に不和とはいえ親を討つ法はない」「父子兄弟一所に討ち死にすべき」と定めた。
このような密使が来る以上は、佐々が隈部攻めを考えていることは疑う余地もない。対策を用意し始めた。

天正15(1587)年7月24日~ならば隈部を攻めんと、佐々成政は6000余騎を率いて隈部親永の城を攻めるべく取り掛かる~
これが・・肥後国人一揆が始まった瞬間だったのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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