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【北肥戦誌・1579年】その3

さて同月の事、大友の持城5ヶ城の内、小田部入道紹叱の荒平城と大鶴入道宗周の鷲岳城が、
共に険阻な高山にあり人馬不自由な城ゆえに兵糧が乏しくなり、戸次入道道雪の立花城へ兵糧を乞うた。

道雪は兵糧を送れば内野に在番している肥前衆(執行種兼ら江上衆)が打って出ると見て、自ら数千騎を率いて警固の為に出兵した。

而して9月8日、立花城を出た荷駄隊は脇山へ至り、小田部・大鶴両勢がこれを迎える為に城を出て数百人が道々を警固する。

執行はこれを聞き付け、打ち出て駆け散らすべしとまだ未明の内に出陣する。

番署の者は僅か73人であったが執行は、
「敵に比すれば味方は「九牛が一毛」であろう。
常の様な戦い方では千に一つも勝ち目はない・・・十死一生の覚悟で戦う事である。
もし打ち勝たなければ分捕りなど無益であるから首級は皆討ち捨てとせよ」と命じた。

執行は古賀右衛門允を物見に出し、帰って来ると古賀は
「時分は宜しいかと。大鶴・小田部と見える軍勢、既に川を越え、その数5~600ばかりにて。
また、その後より立花勢と見える約3,000、遥かに後れて見えますれば、後続の続かぬ内に早一戦に及ぶべし」と述べる。

古賀の云う通り、道雪は遥か後方にあり、人夫数百人に兵糧を運ばせ、警固と併せて3,000ほどで移動していた。

大鶴・小田部は既にそれを迎えて早良川を越えていた。

執行は士卒を下知し、大いに勇んで敵に向かって行った。

見ると、二間ほど味方に先んじて馳せ来る法師武者がある。

古賀右衛門允はこれに走り掛かって、引き下ろしざま組み敷くと、その首を討った。

しかしながら今朝方、内野を出陣した際に、分捕りは打ち捨てと決められており、一応その首を田の畔の草の少し生えた中に差し入れて置いておく事にした。

また、大鶴入道の老臣・半田能登守が馳せ来ると、古賀右衛門の息子・古賀権右衛門がこれを引き摺り下ろして組み敷く。

権右衛門は16歳、半田は古兵である。

権右衛門が危なく見えて、他の者が加勢しようとすると、右衛門は頭を振って、
「いやいや、若き者の初勝負に加勢致さば、面々癖になり申す」
と、後ろに控えてこれを見ていたが、終に上になった権右衛門が半田の首を討った。

隔して両軍入り乱れて戦った結果、江上勢は散々敵勢を追い崩して、二時ばかりの戦いに難なく切り勝った。

味方の討ち死には11人程である。

江上勢は勝ち鬨を上げて内野へと退いて行った。

これを聞いた道雪が立花勢を率いて内野の近くへ来ると、執行は下知を加え鉄砲15挺ほどを撃ち掛けさせ、すぐさま内野へ退かせる。

立花勢も立花へ退いて行った。

さて内野へ帰陣し、生け捕った者らに話を聞くと、小田部・大鶴共に討ち取られたと述べた。

執行は不審に思いこれを調べさせたが、討ち捨てと決まっていた為に誰が討ち取ったとも判らない。

生け捕りの者が述べるには、ならば今朝討ち死にの者の諸道具を見ればよいと述べる。

そこで、古賀が討ち取った法師武者の太刀を見せると、疑いも無く小田部紹叱の物であるとした。

まさか大将が真先に駆けてこようとは思いも寄らず、古賀が隠し置いた首を生け捕りの者へ見せると、紛れも無く紹叱であった。

また、大鶴入道も首が見つかったが、こちらは誰が討ったかは判らなかった。

執行はこの首を桶へ入れ隆信へ送ると、隆信は大いに喜悦し、その首を蒲池鑑広の籠る山下城下に掲げさせた。

9月、秋月種実・原田越前入道了栄・草野鎮永・筑紫広門、各々が戸次道雪、高橋紹運と合戦に及ぶ。

同月、隆信は筑後に在陣中、肥後は八代(誤り。正しくは隈府)の赤星統家を味方に引き入れよと命ずる。

鍋島信生は赤星の知己である甲斐外記に下村生運という者を付けて、赤星の元へ差遣した。

赤星は了承しなかったが、甲斐も下村も弁の達者であり、遂に赤星を承服させて人質の事まで申し述べた。

赤星は今年10歳になる男子を両人に渡し、「この子を深く頼む」と下村に太刀一腰を渡した。

隆信は大いに悦び、甲斐に礼謝し、下村には忠賞として、後に肥後国並恵村を与えている。

赤星の男児は、鰡江の無量寺へ預けられ、後に柳川に置かれたともある。(天正8年に異説あり)


さて、蒲池鑑広であるが、隆信に数ヶ月居城を囲まれていても、
城が要害である事、また大友勢が筑後へ入り星野・草野・問注所と戦う為に生葉に陣を布いていた処へ後援を頼んでいた事とがあり、心強くしていたのであるが、
11月初旬に大友勢が豊後へ帰陣した為に気力を失い、遂に11月3日、鑑弘は隆信の陣へ参じ、弟の蒲池鎮行を人質に出すと共に起請文を提出、龍造寺の軍門に降った。

隔して隆信は28日に山下の囲みを解いて、陣を高良山へ移した。

そこへ秋月種実・筑紫広門が現れ隆信と対面、前後の軍事に関する話をした後に二人は帰って行った。

隔して隆信は筑後一国(十郡)、肥後半国を切り従え、龍造寺家晴・龍造寺信時を肥後の高瀬に、土肥家実を小代城へ置いて大友・島津の押さえとし、鍋島信生を筑後は酒見城へおいて当国を守らせると、自らは12月3日に村中城へ帰った。

またこの冬、肥後の辺春親運が龍造寺に逆心あるとして、隆信はこれを討つよう筑後の蒲池鎮並・田尻鑑種、肥後の小代伊勢入道宗禅・大津山河内守へ下知、肥前からも後藤家信・内田兼能(入道栄節)が出陣した。

辺春は防戦するも寄せ手の激しい攻めに耐えかね、遂に龍造寺家に降参した。

同じくこの年の冬、神代長良の老臣・三瀬大蔵が佐嘉へ参り隆信へ、
「長良に家を継ぐべき男子が無く、御一族より養子を貰い受け、娘に娶らせ家名を護らせたく存ずる。
但し御名字の中からは叶い難く思いますれば、鍋島飛騨守殿に御子息数多おわすれば、そちらの御一人を賜りたし」と述べた。

ただ信生にはまだ男児がなかった為、隆信は信生の弟・小河信貫(後の信俊)の三男・犬法師丸(7歳)を山内へ送った。

その供として武藤善兵衛・田中善右衛門・石井孫兵衛・太田源助・馬郡孫右衛門・木下小兵衛・久納八助・矢作小右衛門の八名が付けられる。

その後、犬法師丸は神代の家督を継ぐと神代喜平次と称し、更に後に神代家良と名乗るようになる。

隆信は、近いうちに上洛を果たし帝に朝し奉らんと心中深く思い、家臣の三浦入道可鷗・土肥信安(前名:家実)・田原尚明・背振山の僧である水上坊仁秀・西岳坊賢也(江上太郎兵衛)を代わる代わる使節とし、先ずは中国の毛利輝元を仲介に頼んだ。

そんな折、不意に田尻鑑種より、甥である蒲池鎮並が龍造寺家に対して叛意を抱いていると、勝屋宗機という大内浪人を使者として、隆信へと知らせて来た。

鎮並叛意の理由は、辺春攻めの際に鎮並は時折柳川へ戻っており、
これが「武士とは、その家を出る時は妻子を忘れるものぞ」、
「武士とは、その敵と相対したときは己が身命を忘れるものぞ」との諸人よりの悪口を生んだ。

鎮並はこれを龍造寺からの批判ではないかと取り憤慨したからとも、
また鎮並と蒲池鑑広は近しい親類ながら不仲であり、その鑑広を龍造寺家が許し味方にしたのを快く思わなかったからともする。

隆信は、ならば鎮並を誅伐せんと思い立ち、田尻と内密に話を進める。

田尻は甥ながらその行状を良く思わず、勝屋を間に挟んで数回遣り取りを交わした。

隆信父子は鍋島信生に対して書札神文を取り交わして、鎮並誅伐を密談する。

12月9日、相談の上、田尻を新恩の地から千町、他に田尻所望の在所 津留村・濱田村130町を宛がうと約する。




赤星さん・・・蒲池さん・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

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Re: ご子孫さま

お知らせありがとうございました。

参考にさせて頂きます。

この記事は北肥戦誌の記述に倣っているので、修正はしないことをご了承下さい。

別に記事にするときには補足を入れさせて頂きます^-^

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時乃★栞

Author:時乃★栞
筑前・筑後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩に気合いバリバリ。
豊前は城井と長野が少し。豊後はキング大友関連のみ。

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