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【相良忠房3_一字拝領、諱は忠房 】

天正9(1581)年12月2日~相良義陽が「響野原の戦い」で討死する。
同年12月22日~義陽の弟・相良頼貞が家督を狙い挙兵~島津の説得?で諦め球磨を去る。

頼貞が主戦派であれば、島津にとっては当主になって欲しくない不都合な人物。
相良家の重鎮・深水宗芳(義陽の嫡男推戴派)と島津が計り、頼貞を排除したと思われる。
頼貞を退ければ、相良内部における和睦反対派(=頼貞推戴派)も、政治的な求心力を失うからだ。

相良家や島津家双方の記録では、頼貞の挙兵を些事として扱い記録も曖昧・有耶無耶。

島津へ降伏_| ̄|○ il||li がくぅ
⇒かつての同盟相手(阿蘇氏)と戦う運命に。。(ω・`))シュン
⇒義陽が戦死Σ( ̄O ̄ノ)ノええっ
⇒叔父が謀反なり~><;アウチ☆

わずか数か月の怒涛の流れで、相良内部の人心が治まるはずがない。
こういう時って、どこの歴史を眺めても、たいてい行われるのは内部の引き締め。

「家臣側:自分が安心したい・地位安泰希望~」
「体制側:早く新体制で安定させたい」双方の思惑合致。

てことで犯人捜し(謀反側残党狩り)が始まり、密告祭りで余計に疑心暗鬼~という負のループに陥りがち^^;
おそらく相良家でも同様の流れになったのだろう。

湯山地頭・湯山宗昌と、その弟盛誉(普門寺5代院主)が、頼貞に呼応していたと讒言されたんです。

伝承によると、頼貞が挙兵するため球磨入りした時に助勢を請うて湯山と接触したらしいんです。
むろん湯山に謀反加担の意思は無く、頼貞の申し出をキッパリを断ったのだが、
人々は「その気が無ければハナっから会わないはず、条件聞いて止めただけじゃね?」と突っ込まれ疑われた。

柿だろうが桃だろうが林檎だろうが栗(以下略)、収穫期の樹木の下で両手挙げるポーズはヤバくね?ってことですなぁ( ゚Д゚)y─┛~~

湯山は自分の軽率な行動を反省し、弟と妻子や従者と共に普門寺にて謹慎し沙汰を待つこととした。


一方、義陽の嫡男・ただいま10歳~年が明けてるから数えで11歳になるかな?
いつ元服したかハッキリ調べられなかったけど、年明け早々には執り行ったと思う。

元服し当主となった日をもって、島津との和睦成立~という約束なのでノンビリはしてられないはずです。
幾つかある島津家の諱の一つである「忠」の文字を貰って、義陽嫡男は「忠房」となった。

忠房の肖像は残ってないが、かなりの美少年だったらしく、
そういう意味でも相良家中から「どこに出しても見劣りしない若当主」と将来を嘱望されていた。

人質として出水城にいた忠房だが、そこで「元服の儀」をしたか、いちど人吉城に戻ったか、そのへんがチト定かじゃなかった^^;
とにかく相良忠房は、元服の儀式で島津から偏諱(へんき=一文字拝領)を受けたのだ。
戦国大名・相良家の歴史は終わり、相良氏は正式に島津配下の領主となる。


忠房の元服・島津との和睦成立と、トントン諸行事が進んで落ち着いたとこで【謹慎中・湯山兄弟】の処遇が審議されたのだが、それは・またの話 by^-^sio
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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